「ビールさえあれば、それでいい」 思い出すと、Oさんは旅行中は何時も大ジョッキでビールばかり。 その日は大ジョッキを2杯飲まれたかも。 味はどうなんでしょうか、スロベニアのビール。
「時間がまだ十分あるから、食後のデザートは川沿いのところへ行って、アイスクリームでも食べますかね」 イヤイヤ、酒の強い人はビールを飲んでもアイスクリームを食べるんですね・・・。
また、あの広場に帰ってきました。

最初に通過したオープンカフェのアイスクリーム屋さんにやってきました。

アイスクリームは沢山の種類が用意されていて、紙やコーンのカップに入れてくれます。
「日本と違って味が濃いね。 牛乳っぽいというか、すぐに溶けだすよ」
次々とお客さんが来ますね。

そういえば、ホントにアイスクリームをなめてる人が多いですね。

アイスクリームの後はコーヒー。 ヨーロッパでコーヒーと言えば、凄い濃いもので、我々はアメリカンコーヒ。ノンビリと時間が過ぎて行きます。
対岸は私が歩いた自由市場のあたりでしょうか。

「川に遊覧船があるんだね・・・・」

すぐ横の席に家族ずれが。 おじいちゃんと赤ちゃん、そして母親。
よく見ると、赤ちゃんにはアイスクリームを食べさせない。 どうしてかよく判らない。 むずかる赤ちゃんに与えたのは、コーンカップの部分だけ。

1時間以上ノンビリしてましたかね・・・・。
「そろそろ、ホテルの集合時間があるから、帰りましょうか・・・・」
この旅行で一番ノンビリした時間が過ごせました。
旅の中でも、街を歩いても、結局、スラヴ人のイメージは出来上がりませんでした。
一週間程度では無理でしたね。
しかし、人々の顔から生活を楽しんでいる余裕が見てとれました。
物質的にははるかに日本の方が豊かなんですが、都市を行きかう人々からは、落ち着きとゆったりとした日々の暮らしがにじみ出ていましたね。
「なんで日本人は、景気が悪いとか、先行き不安などと、何時もマイナス思考なのかしらね。 日本は十分豊かな国だし、パワーもあると思うんですがね・・・・」 この旅の添乗員のT嬢。
良い見解と私は思いますが・・・・・。
何やら懐かしいというか、ヨーロッパと少し違う感じの音楽が聞こえてきました。
橋のたもとのところで、3人の少し人種の違うような人が・・・

右に立っているオジサン。 相当酔っぱらっていて、音楽に合わせて歌ってましたね。 そのうち演奏者が 「チョット、そのへんにしてくれんかね。邪魔なんだわ」 と言う感じで、排除。 何処にでもいますね、陽気な酔っ払いは。
橋から違う川沿いの道を。 柳の木が一杯で、少し静かな感じですね。

少し路地を覗いてみましょうかね。

通りにバックして・・・。 川向こうは、すでに通ってきた道でしょうか。

川沿いの道の木に何やら白い花が。

プラプラと歩いていると、結構壁に落書きがありましたね。 でもこの落書きは

そろそろ、TさんやOさんと待ち合わせたところにバックして、お昼の時間です。
お気づくかどうか、これまで全く車を見ませんね。 どうもこの中心街は車の乗り入れは禁止のようです。そのため、小さな車が街を走っています。

ノンビリとした街にするには、やっぱり工夫が必要かも知れませんね。 日本のように車が走る街で、オープンカフェは似合いませんね。
「市場だな、それにしても結構な人出だ」

アジアなどでは自由市場では大勢の人の喧騒でごった返すのですが、この街の市場は実に穏やかで、豊かさを感じますね。
花屋さんですかね・・・・。

いろんなお店が一杯ですね。 此処は八百屋さんですね。

次は果物屋さん。

このオバサン、何を売っているのでしょうか?

このお店は花を乾燥させた飾り。なんと言ったっけね・・・

この市場、そのほかに衣料品や日常雑貨品など、品ぞろえは十分ですね。
観光土産物? まったくありません。 全て地元の人のための品々ですね。
そろそろ、市場から次の場所に移動しましょうか・・・。
買い物袋を提げた人が一杯通っていますね。市場から帰る人達ですね。

この街にはスーパーマーケットは見当たりませんね。 郊外ではもうスーパーが出来ているんでしょうかね。でもこの自由市場は残ってほしいですね。 別に便利さばかりを追求するのも如何なもんでしょうか。この街には自由市場が似合いますね・・・。
さてさて、次は何処を歩きましょうか・・・・・
「終日フリータイムと言われてもな~・・・。昼飯もないんだね・・・・・」
幸いなことに、ツアーメンバーで英語が堪能なTさん。
「リブリャーナの中心街まで、タクシーで一緒に行きましょう」
この方にはクロアティアのドブロヴニクの壁歩き以来、お世話になってきた。
チャンとタクシーの予約から、昼のレストランまで確保。 有難うございます。
ちなみにこの国は英語がよく通じるようです。
孫のお土産を買いたいという Tさん夫婦、Oさん夫婦と別れて、一人で街をプラプラ。
「貴方もお孫さんいるんでしょう? お土産はいいの?」
「いますけど、俺は関係ないですよ」
さてさて、スロベニアの首都リブリャーナ。 人口30万人弱、小さな首都ですね。
まずは、その中心となるプレシェーレン広場へ。

このリブリャーナという都市、小高い丘に城跡があり、町の中心部に川が流れ、その川沿いに教会や家々が並んでいる。 広場の右手には三本橋。

「ノンビリした、エー街や・・・・」
圧迫するような高いビルがない。 そして、パリやローマのような煌びやかさ、騒がしさがまったくない。 ヨーロッパの片田舎の都市という風情ですね。
何やら変な人がやってきました。

「この落ち着いた街の感じは実にいいな~・・・・」
観光地に見られる 客に媚びる ところがまったくない。 大都市のように人を引きつけようとする 圧迫感 もない。 街全体が マイペース な感じがしましたね。
ブラブラと一人で歩くにはいい街ですね。
それでは、広場の左手の川沿いの道路から、ゆっくり歩きましょうか。
道にはオープンカフェが並んでいますね。

まだ歩き始めたばかりなので、オープンカフェに立ち寄るのは後にして・・・・
橋が出てきました。 橋の向こうに渡りましょうか・・・。

橋を渡りきると、なにやら賑やかになってきました。
子供たちが地べたに座り込んで、見ていますね。 人形劇ですかね。

なんだか長閑な音楽が流れてきました。

どうも人が多くなってきました。 市場に近づいてきたようです。
プラプラ歩きは続きます・・・・。
首都のリブリャーナから西北へバスで1時間超。ユリアン・アルプスへ向かう。

「キャンピング・カーが目立つな~。 あれに乗れば、ヨーロッパなんて自由に旅が出来るんだろうな。 あんな旅行のスタイルもいいだろうな・・・・」
「日本でも最近増えてるよ。 あれと同じような車もレンタル出来るよ・・・・」
そんな話をしているうちに ブレッド湖 に着きました。

このブレッド湖での観光スポットはブレッド城と聖マリア教会だそうです。
「あんな崖の上に城を作って・・・・。 不便だったろうにな・・・・」

このブレッド城から見た風景がよかったですね。
特に 湖に浮かぶ 聖マリア教会。



そうですね、ブルーコメッツの ブルーシャトウ を思い出しましたね。
霧が出たり、後ろの山が真っ白に雪を被ると、また格別でしょうね・・・。
このブレッド湖。 湖の周りをゆっくり廻って、しっかり写真を撮ると、森といずみに囲まれた、教会やお城が良い被写体になるでしょうね。
その日の私? 暑いので、ツアーメンバーと 湖畔のカフェでコーヒーを飲んでました。
スロベニアなんて国は、訪問するまで全然知りませんでした。 とあるアメリカの大統領が スロバキア と間違えて喋ったとか。 私も同じような間違いをしますね。
スロベニアは人口わずか200万人、面積は四国程の大きさですかね。
一言でこの国を表すと、 「アルプスの裾野に広がる、豊かな国」 という印象ですね。

スロベニアは長らくオーストリア・ハンガリー帝国に支配されていたそうです。 旧ユーゴ成立でその支配から脱し、1991年にユーゴから分離・独立。 スラヴ系のスロベニア人の国ですが、旧共産圏の中では、一番自由経済圏の西欧に近い国と言われています。
「どうして豊かなんだろう、この国は・・・」
答えはその地理的な位置ですね。

さてさて、このスロベニアの地の最初の訪問場所は ボストイナの大鍾乳洞 です。
この鍾乳洞、私が見た鍾乳洞では最大規模でしたね。
「寒いね、寒いよ」 鍾乳洞の中の温度は8度。 外は30度を越えているのに8度ですよ。
「トロッコ列車に乗りますよ~」

そのトロッコ列車。 結構なスピードで走るんですよね。時速20~30キロぐらいの猛スピード。
その列車がガタガタと揺れながら走るんですが、トンネルでは岩に頭が当たりそうで、思わず頭を引っ込めてしまいましたね。

5分ぐらいトロッコ列車に乗っていましたかね・・・。
それから大鍾乳洞の中を延々と歩きます。 半端な大きさではありません。

最後の場所は撮影OK。

「この鍾乳洞はヨーロッパで一番大きな鍾乳洞です。 全長は24キロもありますからね。 昔、オーストリアの皇室の人が入っていった時には、ガス灯で照らしていたそうで、今でもそのススが残っているそうです」
「うんうん、日本の秋吉台の鍾乳洞なんて足元にも及ばないわ。 凄い鍾乳洞だね」
外に出ると・・・・・。 暑いですね・・・。また30度を越える炎天下・・・・・。
ボストイナの町から 首都のリュブリャナへ向かいます。
渋滞ですね・・・・。 この道はイタリアから首都のリュブリャナ、そしてウイーンやバルカン半島の各地へ向かう、メイン街道なんですが・・・・

この町の売り物は、ローマ時代のコロッセオ。

中に入ってみましたが、此処はローマのように地下室はありません。

しかし、古代のローマ人と言うのは変な人達ですね。 属州や同盟国に、なぜか一生懸命に、道を作ったり、水道橋を作ったり、今で言う社会的インフラ整備をしているんですね。 フランスに水道橋が残っていたり、中東にもコロッセオが彼方此方に残っています。
それに税の徴収は生産の10分の一と低く、兵役を課していないケースが多い。 確か兵役義務はローマ市民権を有する者に限定していたような記憶があります。
このようなローマ人の他民族に対しての寛容さと、道路などの社会建設が、あのローマ帝国を作り上げたのではないでしょうか。 そして、地中海世界は ” パクスローマナ ” を謳歌出来た・・・。
ローマ人は多神教でしたが、自分の宗教を他民族に押しつけることもなかったようです。 だからユダヤ教のような絶対神を求める宗教は嫌いだったらしく、一神教のキリスト教も避けたかったようです。それが多民族、多宗教の地域をまとめる コツ だと思ったんでしょうか。
その後の世界の歴史は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった、一神教の非寛容な感性に支配された紛争が続いていますから、ローマ人は偉かったんですね・・・・。
ついついローマ時代の話になってしまいました。
プーラの町にはいろんなローマ時代らしい遺跡が残っています。
これは町の入り口にあった、一種の凱旋門ですかね。よくぞ2000年もつぶれずに・・・

この門で若者の集団が記念写真。ついでに私もパチリ

「いい子たちだな・・・・。何よりも健康的だわ」
日本の高校生も、受験競争よりも海外へ研修名目で遊びに出かけられたらいいのにね・・・・。我々のような年寄りが海外旅行するより、その方がズーと良いやね。
その日は一番暑かったですね。 日本から来た年寄りは炎天下で少々お疲れ。
ローマ時代らしき建物の前の広場のカフェで休憩。

ツアーメンバーにスマートフォンを持参している人が。
コーヒーを飲みながらブログの話になって、スマホで私のブログを検索してくれました。
「チャンと出てくるじゃん、俺のブログが!」 当たり前のことなんですが・・・・。
海外のカフェで自分のブログを見るのは、一種の感動ですね。 遅れてますね、私は。
さー、長かったクロアチアの旅もこの町が最後です。
次の日から、お隣の国 スロベニア へ行くことになります。
とにかくチャンと朝はモーニングコールで起こしてくれて、チャンと朝ごはんが食べれて、バスの用意がしてあって、次の観光地へ連れて行ってくれる。
「今日は何処に行くのかな~・・・・」
添乗員さんが、親切に旅行中の見学先や、出来事を、細かいメモを書いて最後に配布してくれました。 そのメモによれば、 クロアチアの旅の5日目は、イストラ半島西海岸の ポレチュ と言う町。
「あれ? この教会(エウフラシウス教会)、何処か変だな・・・・」
どうも見慣れたヨーロッパの教会とは一味違う。 ゴツイというか、素朴というか、野暮というか。 全然洗練された感じがしない。
「こりゃ中世の匂いがする。それも相当古い感じだ」


フランスのモンサンミッシェルも少し似た感じがありますが、それでも中庭に華麗さがありました。確か10世紀頃の建設だったと記憶してます。 このポレチュの教会はもっと昔の感じがしますね。(モンサンミシェルの様子はこのブログ、カテゴリ、西洋旅行記をクリック)
「なるほど、この歴史ある野暮さが世界遺産の理由か・・・・・」
多分添乗員さんがチャンと説明してくれたんでしょうね。 どうも5世紀前後のキリスト教が認められて月日が経っていない頃の教会だったんですね。
この教会の売りは古い建物とモザイクタイル。

文句ばっかり言ってますね。 でもね、この教会のように、きっと中世のヨーロッパは 野暮 だったんじゃないですかね。
次に行った聖堂がまたチョット変わっている。

どうもローマ帝国崩壊後にビザンチンの影響下にあったのでは・・・・・。 それでも現在のギリシャ正教の聖堂とは少し味が違いますね。 キンピカだけど、素朴さがありますね。

「さー、飯だ、メシだ!」

「箸はないのかな、日本の箸。 ナイフとホークで魚を食べるのは大変だよ」
何時も思うのですが、海外旅行で食べる食事。 中国は沢山出てきますが、ヨーロッパは前菜とメインデッシュ、そしてデザートで終わり。 パック旅行だからですかね・・・・

と言っても、私はイストラ半島なんて全然知りませんでした。

「なんだか、まるでイタリアの町に来たような雰囲気だな・・・・」
オパティアの町には、古いホテルとか、建物の作りが、なんとなくクロアチアじゃなくて、イタリアの匂いがするんですね・・・。
「確かこのイストラ半島やトリエステの辺は、歴史的にイタリアの国境問題で、長い間もめてたところのような記憶があるけどな~」
イタリアという国はローマ帝国崩壊後は意外と強国になったことがない。 むしろ北からの勢力に圧迫されて、このイストラ半島は言うに及ばず、北イタリアをオーストリア・ハンガリー帝国に占領されていた。
19世紀にイタリアの統一を達成、しかしこのイストラ半島は依然として他国の領土だったので 「失われたイタリア」 という 名前がついているように、微妙な地域なんですね。
第二次大戦後、戦勝国ユーゴがこの地の新たな主となり、ユーゴ崩壊後もクロアチア・スロベニアがそれぞれ領有することに。
「住民投票をしたら、イタリア領の方がいい、なんてことにならないかな・・・・」
もう70年もクロアチア領だったから、そうでもないかも知れません。
少し歴史に拘り過ぎかも知れませんが、長年の歴史は町の雰囲気ににじみ出るもんなんですね。
朝の5時。 オパティアの港付近をブラブラ。
港の夜明けですね・・・

ボケーとタバコを吸いながら、朝日が登ってくるのを見ていました。

1時間以上朝の港を歩いていましたかね・・・・。
「あれ? これは紫陽花?」

「今日もまた暑くなりそうだな~・・・」 オパティアの町がそろそろ活動を始めました。

どうもその日はイストラ半島の世界遺産を訪ねるようでした。
「行くところも知らないの?」 そうですね、何時ものことですが、よく知らないで旅してます。
「ここは中国四川省の九賽溝のように、青い湖と綺麗な滝が有名です。 ” 西の九賽溝 ” とも呼ばれています。」 と同行の添乗員さん。
私は昨年の秋に九賽溝に行きましたので、比較は正確に出来ますが・・・・
この国立公園は標高が1000m弱。 雪山に抱かれた標高3000mの九賽溝とは全く違う環境にありますから、高山病の心配はありません。
「確かに水は青いし、滝が多いね・・・」

一番大きな滝だそうです。

「うんうん、西の九賽溝ね・・・・。 ところで添乗員さん、貴女は九賽溝には行かれました?」
「添乗で行ってきましたよ。 でも中国人の観光客が多くて、うるさくて・・・・」
あまり景観の比較についてのコメントはない。 判るような気がする。
どうも九賽溝とは全然規模が違う。 西の九賽溝という名前は少し荷が重いですね・・・。
せせらぎというか、小さな滝と言うか・・・。それはそれなりに・・・

「せっかく来たんだから、コバルトブルーの湖を撮らなきゃ・・・・」
カメラを持っていると、どうしても撮ろうとしますね。

九賽溝の時もそうだったのですが、水の色は光の具合や撮る角度で、微妙に変わる。
カモがいましたね。

この公園はトレッキングや自然観察を好む人がやってくるそうです。 九賽溝のように溢れるばかりの観光客がいない点はよかったですね。

「しかし、暑いね・・・・」 比較的標高があるので涼しいハズですが、直射日光が強いのと、2キロばかりですが山道を歩きましたからね・・・・。
旅は、また山を越えてアドリア海へ戻り、一番奥の 「イストラ半島」 へ向かいます。
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中国の九賽溝の様子を見たい方。 このブログの左欄 「カテゴリ」 で 「中国・四川の旅」 をクリックしてください。 九賽溝の写真が沢山載せてありますから、確かめてください。