海外の観光旅行ではなおさら上手く撮れませんね・・・・。
初めての場面に遭遇して、パッといい絵が撮れるほど、私の腕はよくない。
今回の中東の旅。日本とは違って太陽がサンサンと輝いてました。
旅へ行くと決めた時は、なんとなく光と影が上手く撮れないかな~とは思ったのですが。
旅の紹介ブログでは載せなかった 光を意識した絵 をまとめました。
まずは砂漠のオアシス、パルメラの遺跡


次はダマスカスの市場

ダマスカス、ウマイヤドモスクの庭


マダバのギリシャ正教教会

最後はペトラ遺跡
シーク(岩壁谷)の入り口

シークの隙間から見えたエルカズネ(宝物殿)

エルカズネの上部。

もう少しきっちりと影が捉えられたら・・・反省ですね。
” 夜明けまえ コーランの声 朗々と ”
4月13日から20日まで、中東のシリア、ヨルダンを観光。
午前4時ごろ、まだ真っ暗な中にコーランの祈りが始まります。朗々とまことに見事な美声がゆっくりと流れて来る。
「アラブの世界に来たんだな~」と実感しましたね。
「なんで中東なの?」 そうですね・・・・。
中東の旅は長年のシルクロードの旅の一環ですが、これまでなかなか中東は行けなくて。
シルクロードの旅は、20年前の中国側の西安からウルムチの旅を皮切りに、カシュガルなどのタリム盆地周辺、そしてその後もイリを中心にジュンガル盆地を廻りました。
2008年には、やっと天山を超えてウズベキスタンへ行って、青の都サマルカンド。
今回は中東のシルクロードを訪ねる気分の旅ですが・・・・。

(アンマンの遺跡の残る丘の風景です)
中東のシリア、ヨルダンは、確かに古くからの東西貿易の中継地ではあるんですが、シルクロードのオアシスというだけでなく、もっと古い歴史やユダヤ教、キリスト教、イスラム教の発祥の地でもあります。
「パルミラやペトラが有名な世界遺産なのを知らなかったの?」
ツアーの同行者の皆さんに笑われたのですが、今回の旅も何時ものように何も知らないで現場を見て、その場所で感じたままを考える私のスタイルの旅ですが・・・。
それにしても20時間近い飛行機の旅はしんどい。
まるで禁煙治療の旅みたいでしたので、とにかく熱いコーヒーを飲みながら、心ゆくまでゆっくりタバコを吸って、・・・・
順次中東の旅の様子を載せていきます・・・。
まー、中東なんていう表現は、西洋人が勝手につけた変な表現(日本が極東と言われるのと同じ)ですが、代わるいい言葉がないので・・・。
そうですね・・・。もめているイラク、パレスチナとイスラエル、石油成金のサウジアラビア
歴史に興味のある方はチグリス・ユーフラテス川の古代文明・・・・
しかし、しかし、浅学な私は、旅に行くまでシリアやヨルダンの場所や大きさがおぼろげ。
旅の話は地図がないとどうもピンときませんね・・・。
下の地図は旅行社から貰ったパンフレットの地図をカメラで撮ったもので、少々判りにくいですが、緑の部分が今回の主な訪問地です。

シリアの面積は日本の約半分。人口は2千万ぐらいで一人当たりのGNPは約1千ドル。
東側の殆どが砂漠ですから、意外と小さな国なんですね・・・・。
首都はダマスカス。少し社会主義的感性が残る国ですね。
ヨルダンはシリアの半分ぐらい。人口も1千万弱。一人当たりのGNPは5千ドル弱。
中東では石油もないのに割合裕福。柔軟な外交姿勢が経済発展の要因か?
首都はアンマン。高原の綺麗な町で、多くのパレスチナ人も住む。
現在、ヨルダンではヨルダン人よりパレスチナ人の方が多いらしい。
この地域は、東側はサウジアラビアから延びる砂漠が圧倒的なパワー。
地中海に近いレバノン山脈付近の50~100キロぐらいのゾーンと、地下水が出るオアシス、そしてチグリスなどの大きな川の流域しか緑はない。そこにしか人間も動物も住めない。
よく知られた有名な話として、旧約聖書でモーゼの出エジプトだったか、ユダヤ人に神から与えられた約束の地、「乳と蜜のあふれるカナンの地」というのが出てきます。
これは死海の西(現在のイスラエルとパレスチナ紛争地)らしいのですが、その場所が確保出来ないと、砂漠の中では死ぬしかなかったのでしょうね・・・。
この中東の地は、そんな自然環境に支配されている場所なんですね・・・。
現地を旅していると自ずと判ってきますね・・・。
大まかな地形の話はこれくらいにして、次回以降は旅の話へ・・・
ちょっと「たこ焼き」が食べたくなりましたので、中断します。
アラブの食べ物は、まずくはなかったのですが・・・・。
出発の日、中部国際空港に着いた途端にそう思いましたね。
行程は名古屋から北京を経由してUAE(アラブ首長国連邦)のアブダビへ。そしてアブダビで飛行機を乗り換えてシリアの首都ダマスカスへ。約20時間の旅ですが、その間はタバコが吸えない!
「うーん、こりゃキツイな~。俺は飛行機で寝れないし、二重苦だな・・・」
そんなことは判って旅行を申し込んだのですが、人間は勝手なもので、目の前に厭なことが現れるとついつい愚痴になるんですね・・・。
「何だこりゃ?」
とにかく中部国際空港を出発したのですが、UAEのエティハド航空の飛行機はガラガラ。
エティハド航空は多分成田に飛びたかったが、成田の枠がなくて中部となったのかも。
ところが北京に着いた途端様相が一変します。
30代の現場労働者風の中国人達がドヤドヤと乗りこんで、あっという間に満席に。
「こりゃ出稼ぎの連中やな~」と後ろの席のツアー同行者のオジサン。
そうですね、乗り込んできた中国人はビジネスマンではない。ただ飛行機には乗りなれているようで、すぐにイヤホーンを耳に当てて体制を作っている。
アラブの石油産油国はまさに建築ラッシュ。飛行機に乗ってきたこの人たちがそうした建物を作っているのでしょうね・・。日本の建設会社はとてもじゃないが勝てないね。日本人は飛行機に乗って現場作業をやりに行くエネルギーはないもの。
経済学者のご意見より、この中国人の労働者の姿を見る方が時代の流れを感じ取れるね・・・。
悪戦苦闘の飛行の末に?、やっとアブダビに着きました。
「スモーキングスポットは何処? 何処なの?」
短い乗継時間内に、どうしてもタバコが吸いたい・・・・。
アブダビの空港は凄く綺麗で大きかったですね。後で訪れたダマスカスやアンマンの飛行場とは比べ物にならない。チョットアラビアン風の装飾がまたよかった。

朝日を浴びてアブダビからダマスカスへ
「そうか、アラビア半島ではペルシャ湾の水際まで砂漠なんだ」

アラビア半島の中心部は延々と砂の世界が

これまでシルクロードで沢山の砂漠を見てきたので、見なれた風景ではあるんですが・・・。
約3時間ぐらい飛んだでしょうか・・・。
ポツリ、ポツリと緑が現れます。ダマスカスに近づいてきたようです。

「これがホントにシリアの首都の飛行場なの?」
殆ど飛行機はありません。おまけに撮影は全面禁止。
昔交易の中継地で栄えた都も、今は田舎の飛行場しか持っていない。
UAEのアブダビの方が現代の交易の中心。歴史は動いているんですね・・・。
我々のツアーはそんなダマスカスからすぐにバスで北上します。
眠いですね・・・30時間以上、殆ど寝てないですからね・・・。
200キロぐらい走ったでしょうか、十字軍の要塞「クラッシュ・デ・シュバリエ」へ。
このシリア・ヨルダンの旅では十字軍の話が出たり、ローマ時代の話がでたり、旧約聖書やイスラムの話など、歴史上の時代が大きく飛びますのでご容赦を。
まずは十字軍の要塞 クラッシュ・デ・シュバリエから
くねくねと小高い山の上に登っていくと、なんとも無骨な白い砦があります。

この要塞はなんと世界遺産に登録されているのだそうです。
十字軍がこの地に押し掛けてきたのは12世紀頃。
ガイドの説明によると、4千人の兵士がこの砦で暮らしたとか。
砦はまさに中世初期のヨーロッパの山城の感じそのままですね。
砦にはお濠もあって、二重構造になっています。

砦の周囲はのどかな農村が広がっています。

「十字軍っていうのは変な話だよな・・・。千年前のキリストの話を持ち出して、勝手に攻めてくるんだから、そこに住んでいる人はエライ迷惑。おまけに砦を作ったり、国まで作ったり」
「こちらの人は、臭い白い豚がやってきた といったそうです」
「そういえば、当時のヨーロッパは下水がなかった。十字軍は臭かったんだね、きっと」
十字軍を正義の殉教者と捉える方はさすがに少なくなったと思いますが、”テロとの戦い” と称して他国に攻め込んでいる国がまだありますから、何年経っても人間は同じことをするもんですね。
砦の中は薄暗くて、大きな窓からの明かりだけです。

そうそう、このツアーでは現地ガイドは英語だけなので、日本人の添乗員のF嬢が大活躍。
通訳は勿論、自分で図書館に通って作った資料をもとに、多くの情報を提供してくれました。
「暗いですから足元に注意してくださいね!」
なかなか親切です。

一時間以上砦の中を歩き回ったでしょうか、結構中は広かった。
「わー、綺麗だわね~・・・」

砦の大きな窓から見える風景が綺麗でした。
多分千年前の十字軍の兵士も同じような風景を見ていたんでしょうね。
砦の外はさわやかな風が吹いて心地よい。
「ここから地中海が見えますよ。あの白く光っているのが地中海です」とF嬢。
「ほんまかいな。どこかの湖じゃないの」
「35キロしか離れてませんから、地中海ですよ」

現在の砦の廻りは観光地特有のお店がチラホラする以外は、ノンビリした農家。
牛の世話をしている少年が手を振ってきました。

世界遺産になってしまったことで、この場所も変化していくのかも・・。
道端の花が綺麗でした。アザミみたいなとげのある花が多いですね。

次はこのツアーの目玉という 「パルミラ遺跡」 へ向かいます。

シルクロードらしくなってきました。
中国の方では ”ゴビタン” と呼ばれている、土が主体の砂漠ですね。
パルミラは、シリア砂漠のほぼ中央にあるオアシス国家だったそうです。
紀元前1世紀からAD3世紀ごろまで、ユーフラテス地域と地中海沿岸を結ぶ交易の町として栄えていたらしく、現在発掘されている建造物の大半がこの時代のもの。
この時代は中国は漢の時代ですから、直接パルミラに中国の絹が来ていたかどうか判りませんが、ローマへのシルクロードの重要な中継地ではあったと思われます。
その後ローマの属州であったり、紆余曲折があって1089年の地震で町は崩壊。
豊富であった地下水も無くなり、忘れられた遺跡になっていったということに。
「それにしても眠い!」
名古屋を出発してから30時間ぐらい寝ていない。
きっとウトウトしていたのでしょうね~・・。気がつくともう夕暮れ。

「そろそろパルミラに着きましたよ。せっかくだから、ライトアップされたパルミラをチョット覗いて行きましょう」
眠気眼で、夕暮れのパルミラ遺跡とのご対面。

暗くて全体が良く見えませんが、とにかく大きな遺跡でしたね。
「また明日にゆっくり見物することにして、とにかくホテルに行きましょう」とガイドのF嬢。
本来なら写真を撮りたい場面ではあるんですが、眠いし疲れたー・・・。
その夜は食事をしてパタンキュー。殆ど何も覚えていません・・・・。
前の晩はすぐに寝たので、朝の4時前に目が覚めました。
この時期、シリアは夏時間ですから、当たりは真っ暗。
4時頃だったでしょうか、聞こえてきましたね・・・・コーランの祈りですね。
ついつい聞き惚れてしまうほどの美声。コーランのコンクールがあったら絶対入賞。
このブログの中東の旅の冒頭で、”夜明け前 コーランの声 朗々と” という下手な俳句?を載せましたが、本当にコーランの美声が朗々と流れてましたね。
コーランが終わってから30分以上経ったでしょうか、やっと空が白み始めて小鳥のさえずりが始まりました。
”少し寒いけど、早朝の町を探訪しようか・・・・”
まだ薄暗い町は誰も歩いていません。

別に何もない田舎の観光地という風情です。
パルミラ遺跡はかなり有名な世界遺産らしいのですが、大きなホテルはありません。
ホテルから遺跡が近いのでプラプラと。
やっと太陽が登ってきました。

遺跡に近づくと、観光用のラクダさんがノンビリと・・・

”そろそろ腹も減ったし、ホテルへ帰ろうか・・・”
「あれ? 道を間違えた?」
私は何せ方向音痴ですから、こういうことはよくあります。
彼方此方ウロウロしていたら、「お茶でも飲んで行けよ」 っと言葉は判らないけど、そんな感じでオジサンが声をかけてきます。ここの人たちは押し並べて人なつっこいみたいですね。
それにしてもあんまり立派な建物はないですね・・・。

この町は小さな町なので、何とか自分のホテルにたどり着きました。
朝から歩いたので、とにかく朝飯を。
食堂から朝の町がよく見えます。小さな寺院が沢山あるんですね・・・。

「ここから遺跡がよく見えるわよ」
「あれは多分パル神殿だわ」
朝日に光る神殿もなかなかでしたね・・・

「さー、皆さん、パルミラ遺跡の見学に行きますよ!」 ガイドのF嬢は朝から元気。
私も前日はよく寝たので、しっかり遺跡見物が出来そうです。
私が出会った遺跡では最大だし、シルクロードの遺跡として最大級でしょうね。

現在はまだ30%程度しか発掘されていないとか。
昨夜見た記念門ですね・・・。

この記念門に続く道路の両脇に大きな門柱が並んでいます。

これらの門柱にはコリント式の飾りがついています。いかにもギリシャ風ですね。

「この道は何のための道か判りますか?」と現地ガイド。
「兵隊が凱旋するところかな~・・・」
「いやいや、案外商店が並んでいたかも・・・」
答えは、砂漠からやってきた隊商が通る道だったのだそうです。
このオアシスへ来た隊商は、見事な装置?に圧倒されたでしょうね・・・。
この道の横に税関みたいなところが残っています。
パルミラを支えたのは、砂漠の隊商から取る税だったようです。
ギリシャ文字とパルミラ文字で、ちゃんと商品ごとの税率が記載されていたらしい。
「一番高い税金が掛かった商品は何なの?」
「絹ですね、絹製品。でも私は税率は知らないけど」 と現地ガイド。
やっぱり中国からの絹が、このパルミラへ運ばれていたんですね・・・・。
パルミラの歴史は不明なところが多いらしいのですが、紀元前19世紀のアッシリアの粘土板文書にその名があるとか、ソロモン王の文献の中にもあるとか・・・。
かなりはっきりしているのは、紀元前1世紀からAD3世紀に栄えたオアシス国家で、東のペルシャ、西のローマに挟まれていたけれど、シルクロードのオアシス都市としてこの地域最大だったらしい。
門柱の並ぶ道を逆側から撮った絵です。

この都市の全体の構造はどうなっていたのか興味深いですが、どうも門柱の並ぶ道の途中にセンターみたいな(私の勝手な見方)場所があります。

おそらくメイン道路の交差するポイントだったのでしょうね。

「それにしても凄い遺跡だよな~・・・」
「このパルミラ滅亡には興味のある話があるんですよ」 とガイドのF嬢。
その話をかいつまんで要約すると。
パルミラは力をつけて、ゼノビア女王(正式には幼少王の息子の母)の時に、亡き夫の夢を果たすために、エジプトを占領し、ローマに反旗をひるがえす。
ゼノビアは絶世の美女で、確かシリアのお札にもその顔が使われています。
下の絵はインターネットから取ったものですが、こんな感じの女性らしい。

帰国後に本などを読むと、彼女はクレオパトラを凄く意識していたとか、エジプトで自分の顔が入ったコインを作らせたとか、子供に皇帝を名乗らせたとか・・・。
結局はAD272年にローマ軍に滅ぼされ、オアシス国家パルメラは一瞬にして滅亡。
彼女は捕虜としてローマに連れて行かれたが、ローマ人はその美しさに感嘆したとか。
遺跡巡りには、やっぱり綺麗な女王様が登場しないといけません!
そんな話を聞くと、目の前に展開する遺跡の数々が急に輝きだしますね・・・。
ローマ様式コロッセオの舞台も綺麗に残っていますが(一部改修かも)、ゼノビアもここで劇を見たんでしょうかね・・。

次はパルミラの中心「バル神殿」へ
門柱が並ぶ部分の東側(多分)の奥まったところにあります。

ベル神殿は紀元前1世紀には存在していたらしく、バルという名前はバビロニアのバールに近いことから、メソポタミアの流れをくんでいるかも。
現在の神殿跡は周囲の城壁が残るだけで、中は殆ど何も残っていない。

何か神殿の中心らしき遺跡の天井には、きめ細かな彫刻の跡が・・・。

このデザインの感じはギリシャよりペルシャ風に見えるのだが・・・。
パルミラはどうも東のメソポタミア、ペルシャの流れと、西のギリシャ・ローマの流れを取りこんで、その影響を受けながら発展してきたのかも知れない。
アラブの片田舎に圧倒的な大きさで残る遺跡。
それが突然滅び去ったシルクロードのオアシス都市パルミラの遺跡にふさわしいのかも。

パルミラには、そのほかに立体式のお墓の跡など遺跡は多いのですが、次へ進まないとこのブログは何時まで経っても日本に帰ってこれません。
次はまた砂漠を横切ってダマスカスへ向かいます。
パルミラからダマスカスへの道は、昔はでこぼこ道だったそうですが、今は舗装されて快適なドライブコースですね。

「あれ? こんなところに湖があったけ?」
「多分蜃気楼ですよ、蜃気楼」
「そうかな~・・・。湖に見えるけどな~・・・」

確かに近づくと湖は消えて行ってしまいました。
土が多い土漠の道が続きます。

中国のシルクロードのような雪の山が見えないのがイマイチ。
結構羊の群れが彼方此方に。

3時間ぐらい走ったでしょうか。
シリアの首都、古くからのオアシス都市、ダマスカスに。

ダマスカスは人口2百万の大都市です。オアシス都市の面影はありません。

「今日のホテルは大都市ですから、ゆっくり出来ますよ」 とガイドのF嬢。
「タバコは吸えるよな、部屋の中でお湯があるよね」
昔はこんな文句は言わなかったんですが、そろそろ歳ですかね・・・。