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 古代渡来人の実勢は?

 今日は日本の古代、古墳時代~飛鳥時代ごろ日本にやってきた 「渡来人」の話。

 月に一度 日本古代の渡来人 についてセミナーを受講している。
 この話は 「まほろば紀行」 のカテゴリーで順次載せているので、読んでいただいたかも。
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 今回は渡来人最大氏族の 「秦氏」 の話の冒頭部分になる。
 ところで、有名な 伏見の稲荷神社 は、秦氏の祖霊として創建された説があり、太秦(うずまさ)という地名が残っているように、平安京建設時には秦氏の勢力が欠かせないものだったという。
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 さて、セミナーではその秦氏の話でしたが・・・。 このブログの中心は私が独自に分析?した話です。

 「古代渡来人の実勢」 という私が名づけたテーマですが、話が少しややこしい。
 結論は、古代日本経済の中枢は渡来人が担っていたのでは? という話です。

 長い文章は苦手という方はパスしてください。 興味のある方は、私が暑い中、時間をかけて分析?した話なので、ご苦労ですが読み進めてください。

 問題1 古代日本人口に占める渡来人の割合は?

セミナー講師によれば、欽明元年(西暦539年)に 秦氏は7053戸、人口換算すると19万432人という資料があり、全国に沢山の秦氏一族が居たという。(ただし秦族は総称で、朝鮮半島からの大きな渡来人グループと捉えた方がいいようです。 同時代に朝鮮任那が滅亡しています) この秦氏の人口数にはかなり信憑性があると力説しておられました。

 秦氏以外にも東漢・西漢などの渡来人グループがいたが、秦氏が最大だったという。いずれにしろその時代に渡来人が20万人以上日本に住んでいたということになります。

~ うむ? 20万人? ちょっと待ってよ。 その時の日本全体の人口に占める渡来人の割合はどのくらいになるの? ~

 私は珍しく講師へ質問。当時の日本人の人口数を聞いたのですが・・・。
 「うーん、よくわからないんですよね・・・・」 どうも古代史学者は俯瞰的分析が苦手のようです。しからば自分で調べるしかない・・・・。

 半日以上かけてインターネット検索。 その結果、日本の人口数の歴史はおおよそ以下の通り。

2~3世紀   弥生時代       おおよそ50万人。(魏志倭人伝等の資料)
4~5世紀   古墳時代       100万人前後か (?????)
7~8世紀   奈良時代       約500万人前後 (大和朝廷等資料)
        平安時代       800万人前後
        織豊時代       1000万人超
        江戸時代       3000万人で推移
        現代         12000万人

 奈良時代以降は資料数も多いのでかなり正確でしょうが、それ以前は予測段階ですね。
 とにかく渡来人が来た古墳時代~飛鳥時代に急激に人口増があったような気がします。米作の普及も大きな要因だったかもしれません。

 さて、そうすると渡来人の日本全体の総人口に占める割合はどうなる?

     {・・・・・ 20万人÷100万人=20% ・・・・}

 現代で言うなら、2500万人の渡来人が日本に住んでいることになります。
 「うーん、これは大変な数字やな・・・」



 問題2 古代日本経済に占める渡来人の役割

 秦氏の仕事は 機織りを始め、土木工事や建築など、幅広い分野の仕事をしたようで、農業分野にはあまり就業しなかったようです。まさに経済人グループで、のちに大蔵大臣を務めます。 また東漢・西漢の渡来人はもっぱら軍事・行政事務が主な分野だったといいます。

 ここで第2の問題ですが、古代日本の経済についてです。

 就業別人口は、古くは農業・漁業など、いわゆる第一次産業が主体ですよね。 江戸時代などは80%の人が第一次産業に就労していたらしい。 後の20%が商工業や行政・軍事に携わっていたのですが、この割合をベースに一次産業以外の就労人口を古代日本に当てはめると・・・。

     {・・・・・100万人×20%=20万人・・・・・}

「おかしいな・・、商工業や軍事・行政に携わる人の数と渡来人の数がほぼ一致する!」

 ということは、日本中の商工業が渡来人に占有され、役所の窓口に行っても渡来人、武器を作るのも渡来人。そこで話される言葉は全て漢語。農業や漁業しかやってなくて、漢語も判らない、話せないし書けない人はどうなるのか?

 日本の古代の実態はこんなもんだった???

「お前の分析は素人で信じられない。 そんなバカなことがあるはずがない!!」
 そうかもしれませんし、意外と私の分析?に近い社会だったのかもしれません。

 日本の古代史は主に歴史学者さん達の資料分析が主体です。 巷で取り上げられる話は 邪馬台国は何処にあった など、ミステリー気味な話ばかり。 人口数や経済の話はサッパリ出てきません。 どうですかね、もっと多方面からの分析で、古代日本の全体像を俯瞰する必要がありますよね・・・。

 暑い真夏の変な話だったですね・・・。
 これからも古代史探訪は続けますので、時々変な?話が登場します。
by takeshi_kanazaw | 2018-07-13 14:02 | まほろば紀行 | Comments(4)

 古代の渡来人の話

 突然ですが、今回は日本の古代史の話です。
 
 このブログは時々話題が飛んで、全く違う世界の話が出てきますが悪しからず。

 私は 以前から 「日本は東アジアの合衆国だ!」 と主張しています。 
 弥生時代から、南や北、そして大陸から、海を渡って日本列島に沢山の渡来人が何度も来て出来上がった国が 日本という国だ と思っているのですが、あまり賛同者は多くない。

 私の主張の根拠は、卑弥呼の時代から古墳時代になると、急に「漢字」が使われる。 表音文字は早く普及しますが、表意文字の 「漢字」 は、そんなに簡単に使えるものではない。 
 「これは漢字を使っている人間が、大勢日本に来て支配層になったということでは?」
 では漢字を使うから中国人? そうとは限らないのがまた面白いところですが・・・。

 さて、昨年から日本の古代史セミナーを受講していますが、今回は引き続き 「渡来人」 がテーマ。
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 「東漢(やまとのあや)」 なんて、聞いたことがある人は少ないでしょうね。
 有名な坂上田村麻呂は、この東漢の流れを汲む渡来人の子孫だというと、少しは興味が湧くかも。

 今回の渡来人の話は、1~2回目のセミナーの冒頭部分になります。

 余談ですが、日本古代史の先生方の多くは、日本書紀と古事記 という 奈良時代に完成した官制書?を中心に分析される。 まー、歴史学というのは文献主義は致し方ないのでしょうが、私の東アジア合衆国説とは相いれないものになります。 しかし、まー、専門家の云うことも聞いておかないと・・・・。

 講師の方の話を中心に始めると・・・・。
 「渡来人は大陸の進んだ農業技術や武器などを古代日本にもたらし、大きな影響を与えて国家形成の基礎を作った」 というのですが・・・・。 これはかなりうなずける・・・。

 それではその渡来人は何処から来たのか・・・・。
 このセミナーでは日本書紀や古事記を元に分析されているから、沖縄や北海道に来た渡来人の話は出てこない。もっぱら朝鮮半島からやってきた渡来人が中心の話題になります。

 当時の朝鮮半島情勢は・・・・。
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 絵の右、三韓の時代から、中央の三国時代、そして左の新羅の統一へと変化していきますが、その間に中国・漢帝国の占領地の楽浪郡もなくなり、その地に住んでいた中国系住民は離散、更に小国集団の伽耶国も滅亡、そして日本と関係の深いとされる百済も滅亡します。

 この半島の混乱に伴って、多くの朝鮮半島に住んでいた人が日本列島にやってきたというのです。ご存じのように朝鮮半島は早くから中国文化圏にあって、漢字は共通語のようなもの。 楽浪郡に居た中国系、中国文化を身に付けた朝鮮系の人が、日本列島に逃れてきたというわけです。 この分析には異論はないですが、このセミナーではそもそも弥生人なるものは何かという分析にまでは踏み込みません。 弥生時代の渡来人の話は文献がないから歴史学として成り立たない?

 まー、講師の云うことを聞くために参加しているので、質問もせずにジーと聞いています。

 飛鳥時代の前後に蘇我氏の勢力が伸びますが、武力や技術でその中心勢力は東漢氏だったらしい。 この東漢氏は一つの氏族ではなく、大陸から来た渡来人のグループの総称的な意味合いなんだそうです。面白いのは東漢氏の祖先は中国・漢の皇帝だというのですが・・・。 東漢氏の流れを受け継いだのが坂上氏で、後に坂上田村麻呂が出てくる。

 「な~んだ、蘇我氏は渡来人で支えられていたのか・・・・」

 しかし、少し冷静になって考えてみると、蘇我氏は言葉も習慣も違う渡来人を使うことが出来る能力は凄い。しかも武力も技術も優れていて、システムも中国式のやり方を知っている渡来集団を使いこなすのですからね。 明治時代のお抱え外国人の比ではないですね。

 「どうもオカシイんじゃない? 蘇我氏そのものも渡来人じゃないの? いやいや、多くの有力豪族も渡来系の氏族で、東漢氏なんてのは新しく日本へ来た渡来人ということだろ? それでないと、簡単に渡来人を統率できるわけがない」 私はそう思うのですが・・・・。
 このセミナーの講師は、蘇我氏が渡来人という説を否定されてますが・・・。

 これまで古代の渡来人についてはあまり注目されてきませんでした。
 最近、この東漢氏が本拠地とした奈良県明日香村の西に、真弓鑵子塚(まゆみかんすづか)古墳という大きな大陸式の古墳が発掘されています。 この地区ではこれからも多くの渡来系の氏族の古墳が出てくる可能性があるそうで、日本の古代史の概念が変化するかもしれません。
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 明日香村の西の生駒山の山裾から吉野への街道筋にあたりますかね・・・。

 日本の古代史。 私は文献だけじゃなくて、衣・食・住 と言った人間生活の基本や、それを支えた技術、それに喋った言葉や文字、運搬手段などなど、違う分野の分析手法が導入されれば、案外これまでの古代史とは違う事実が沢山出てくるように思うのですが・・・・。 日本書紀や古事記ばかりではオカシイ?

 セミナーはまだ続きます。
 異論を唱えるには、これまでの歴史学の話も聞いておく必要があります。
 質問や議論は差し控え、これからも講師の話をジーと聞いてみます。
by takeshi_kanazaw | 2018-05-18 08:22 | まほろば紀行 | Comments(4)

 蘇我・物部戦争

 今日は日本の古代史のお話。

 昨年から 「古代の王権と中央豪族」という市民講座を聞いています。
 昨日は第4回目、テーマは西暦578年に起った 「蘇我氏と物部氏との戦い」
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 昔学校で、この戦いは、” 仏教導入の蘇我氏と、仏教排斥の物部氏との戦い ” と習いました。
 皆さんも学校でそう教えられたのではありませんか?
 なぜなら 日本書紀 にそう書かれているからですが・・・。

 この講座の講師の経歴はよく知らないのですが、日本書紀は勝者が後に書いたもので、必ずしも史実を述べているとは限らない という立場を取っています。 私もそう思います・・。

 この日の話の結論は
 「この戦いは豪族集団のトップの蘇我氏(大臣)が、軍事官僚トップの物部氏(大連)を滅ぼした戦い。まさに政権内の勢力争いで、仏教に関しては日本書紀を書いた仏僧などが後でこじつけたものだ」
 「後に聖徳太子伝説など、仏教思想が盛んとなり、史実とはかけ離れた概念が広がって固定してしまった」

 講義では蘇我氏と物部氏との戦いの詳細まで話が展開します。
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 物部氏の本拠の石上神社(いそのかみじんじゃ)や大阪河内の戦いや、討伐軍の指示を出したのは後の推古天皇(当時は天皇死亡時の皇后で、蘇我氏系)など、極めて細部まで検討されています。 なかなか面白い。


 前にこのブログ日本古代史のロマンを求めて?  で述べたように、日本の古代史は必ずしも史実を述べているわけではありません。
 その原因は 日本の最古の歴史書 「日本書紀」や「古事記」に頼り過ぎる点にあります。

 日本書紀が完成したのは西暦720年(奈良時代初期)で、当時の政権が過去の歴史を書いたわけだから、都合のいいように編集する可能性は大。、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという極めて政治的な色彩の濃厚なものと推測されます。

 歴史に興味のない方にはなんとも退屈な話ですが、似たような話は現代でも起こりうる。
 国家が庶民に実際と違う概念を植え付け続けると、それが歴史事実に変化し、庶民はその概念を信じてしまう。 戦前の教育がそうであったように、何時も起こりうる可能性があります。

 まー、歴史観というのは人それぞれで、何が史実なのかはよく判りません。

 疑い深い私などは、学校で習った歴史を信じないで、古代の日本は南方や大陸からいろんな人が来て、東アジアの合衆国みたいなものだ なんて勝手な思いこみをしています。 古代人が中国語をスラスラと書けること事態、オカシイじゃないか・・・。

 この講座はまだ続きます。 基本は日本書紀の記述の真偽検討を中心にするテーマのようです。
 私の思い込みとは程遠いですが、違う考えの意見も聞いておかないと・・・。
by takeshi_kanazaw | 2018-01-11 11:19 | まほろば紀行 | Comments(6)
 突然ですが、最近 「古代の王権と中央豪族」というテーマの市民講座を聞いています。
 この講座は月一回で6回シリーズ。日本史の飛鳥時代前期あたりの蘇我氏の頃の話ですが、なかなか面白い。もう3回目に差し掛かっていますが、ちょっとその話を。

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 話の主題は、――蘇我氏は昔からの豪族である葛城氏(明日香の西にある山付近に存在)の流れをくむ豪族で、この時代の日本の政治は蘇我氏の専横ではなく地元豪族の合議制だった。――
 教科書で習ったこととは違う観点ですね・・・。

 日本の古代史なんていうと、卑弥呼と邪馬台国の話から、突然日本書紀の話が不連続に出てきて、さっぱり判らないことが多いですね。 判らないことが多いので、各自が勝手に想像を逞しくして諸説が語られ、そこにロマンがあるのかもしれませんね。

 ところで、このブログには「まほろば紀行」というカテゴリがあります。生意気にも私も古代史に興味を持って、明日香をぶらついたり、山の辺の道を歩いたり、葛城街道や古代の竹内街道を河内までを走って、古代史の現場探訪をしたことがありました。詳しくはカテゴリ「まほろば紀行」をご覧ください。

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 そうそう、“ まほろば ” という言葉の発祥は、景行天皇(12代)の息子である日本武尊(ヤマトタケル)の望郷のうたとされています。彼の実存自体が不明ですが・・・。
「倭(やまと)は 国の まほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし」


 さて、日本の古代史の研究の主流は、もっぱら「日本書紀」と「古事記」の研究です。両書は8世紀の奈良時代に完成したもので、日本国成立の頃より数百年も後で書かれたものです。神話から始まって、何が事実で、何が脚色か、研究者によってマチマチの説が出ます。残念ながら、他に有力な文献がないので、極端に両書に頼ることになっています。

 「おかしいやんか、歴史なんて勝者が後で上手いこと書くことが多い。もういい加減に日本書紀一点張りを止めて、人類学や経済学、地理学など、違う視点で古代史を研究してもいいだろうに」
 生意気にも私はそう思っています。

 私は日本のボスとなった天孫族やその他の豪族達の多くは、大陸から来た渡来人だと思っています。(異論のある方は多いと思いますが。) なぜなら、日本列島の土着人が、すぐに漢字(中国語)を書きこなせるのはおかしい? さらに稲作の普及に欠かせない農業土木や、重要な鉄器、そして意外に進んでいる大陸との交流。大陸出身者なら可能だと思います。いわゆる騎馬民族征服説なのですが、この説は古代史研究の傍流のようです。

 「しかし、素人が自説にこだわってばかりいてはいけない。ちゃんと古代史の主流の話も聞かなくちゃだめだ」 天邪鬼の私ですが、ここは我慢して?日本書紀ドップリの学者さんの話をジックリと聞いてみようと思い立ったという次第。

 講座の中身を紹介するのが筋でしょうが、ブログという媒体では無理でしょうね・・・。
 まー、私自身の記録保管という意味で、少しその さわり を載せておきます。

「基礎を築いたワカタケルノミコト(雄略天皇)」
 雄略天皇(21代天皇とされる人)が、5世紀ごろに葛城氏などの豪族を滅ぼし、王族の血なまぐさい抗争を経て天皇家の基礎を築いたらしい。この時代以降の話が史実に近い?
(天皇という尊称は後世に使われたもの。当時は全く異なる呼び名のようです)
 じゃー、それまでの史実はどうなのか。三輪王朝は存在したかなどなど、疑問が出てきますね。

「昔の国際港は和歌山?」
 古代大和朝廷の大陸との交流は、難波(現大阪)とされていますが、それは6世紀後半からで、5~6世紀の頃は葛城山から南へ下った葛城道、巨勢(こせ)道、から紀ノ川を下り、現在の和歌山から大陸に出て行ったという。滅ぼされたとされる葛城氏・巨勢氏の流れをくむ力(蘇我氏など)が強かったらしい。必ずしも天皇家中心ではなかった?

「大連と大臣」
 大連というのと、物部氏と大伴氏が浮かびますが、連(むらじ)というのは天皇に属する 官僚 のようなもので、それぞれ特別の武力とか財政などの仕事を担当する職を言うらしい。それに比較して臣(おみ)というのは、過去は天皇と同等の豪族達の主力氏族を指すという。なお、臣となれる豪族は20以上あって、10人ぐらいが選ばれて閣僚?を構成。そのトップが大臣で蘇我氏が独占したらしいが、基本は臣達の合議制だったらしい。

「面白いのは天皇の婚儀」
自分の部下である連の娘は皇后には迎えず、蘇我氏を始めとする臣の娘を迎える。過去にも葛城氏と天皇家の婚儀が多かったらしく、なんとなく判るような気がしますね。そのことが政治面にも影響が出てくる。
 大連中心の政治は天皇中心の組織かもしれない。それが臣の合議制に移行し始め、物部氏と蘇我氏の抗争というのは、有力官僚と大物大臣との戦いだった? 


 まー、退屈な話と思われる方、面白いと感じる方、いろいろでしょうか・・・。
 この講座は後3回あります。 
by takeshi_kanazaw | 2017-12-15 08:16 | まほろば紀行 | Comments(2)
 「飛鳥の巨大古墳の謎に迫る」という講義に参加しています。

 講義が終わってから、講師の三重大学小澤教授に聞いてみました。
 「巨大古墳を作るのに、どのくらいの人工が要るんでしょうか」
 
 先生は直ぐに手元のPCを見て、参考資料を提示してくださった。
 「大林組が仁徳天皇陵の造営費用を試算しています。それから、大化の改新後、大化薄葬令というのが出ていますよ」

 面白! さっそくインターネット検索で調べました。

 ご存知の仁徳天皇陵。ちなみに天皇という言葉は8世紀頃から使われ、古墳時代には天皇は存在しません。正式名は大仙古墳です。
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 (インターネットから検索図。)
 この仁徳天皇陵とされるモノは日本最大古墳ですが、大林組が1985年にその造営に係る労働力や日数を試算している。 幾つかの前提条件があるが、結論は以下の結果です。

 総作業員数:延680.7万人 (一日平均1500人前後か)
 造営期間 : 15年8ヶ月(並行工程があるため上記合計より短い)
 総工費:796億円(1985年当時の貨幣価値、現在では4000億円ぐらい?)

 「凄いな・・・。 一大プロジェクトやな・・・・」
 揉めているオリンピックの国立競技場より、もっと大きなプロジェクトですね。

 天皇陵や豪族の墓は仁徳天皇陵だけじゃないですね。大阪の河内地方には一杯あるし、奈良盆地にも一杯ありますね。
 「古代の人は墓ばっかり作らされていたのかしら・・・」

 三輪王朝ー古墳時代ー飛鳥時代と300年以上の期間がありますが、その間の日本の人口はおおよそ300万人~500万人ぐらいとされています。 河内や奈良付近の人口は、どう見ても50万人前後しかなく、農作業や日々の暮らしの他にいろんな作業があり、墓を作る余裕はそんなになかったのではないでしょうかね。

 「単に墓を作るというだけでは、物理的にも、経済的にも説明できないのではなかろうか・・」私はそう思うのですがね・・・・。

 もう一つ先生に紹介された資料の大化薄葬令。大化の改新の後、あまりに墓に労力をかけないように、天皇陵でも7日以下で作れと言っています。確かにそれ以降の墓は極端に小さくなって、巨大古墳の時代は終了します。

 日本の歴史学、考古学は、どちらかというと文系の先生方が中心ですが、どうも日本書紀・古事記に引っ張られて過ぎている感じがします。むしろ大林組の分析のように、専門外の分野からの視点の方に迫力を感じますね。

 遺伝子情報分析技術の発達で、日本人の起源は何処にあるかという分野も注目されます。さらに経済学の分析が進めば、古代人の日常生活がもっとよく判るかもしれません。 そのほか宗教学、心理学、など、古代人の人生観などの分析も面白い。
 でも、なぜか日本では古代史の研究はダイナミックじゃないですね・・・。

 世界の王国の起源は、神話と別に現実的な事実の分析が明らかな場合が多い。イギリスもそうですし、モロッコ、タイなど、王国の起源ははっきりしています。
 日本の場合は、古代史分析に必要な天皇陵の内部調査は、宮内庁からのお達しで禁止です。憲法でも天皇は国民の象徴ですからね・・・・。

 このブログの「まほろば紀行」は、まだ続ける予定です。
 気が向いたら、また飛鳥へでもプラリと行ってこようかな~・・・・・。
by takeshi_kanazaw | 2015-08-12 12:37 | まほろば紀行 | Comments(0)
 このブログでは 「まほろば紀行」 というカテゴリーを作っています。
 日本の古代史にロマンを馳せているのですが、現地を訪れて何時も自分勝手な推測に喜びを感じています。

 「あんまり独りよがりばかりもイケないだろうな~、たまには専門家の意見を素直に聞いてみようかな」ということで、文化センターの歴史講座を受けています。
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 講座のテーマは「飛鳥の巨大遺跡の謎に迫る」 講師は三重大学の小澤教授です。
 この方は、大学の教授になられる前は、実際に古墳発掘のお仕事をされていた。

 さて、飛鳥の地では彼方此方に古墳とおぼしき遺跡が散在します。最近では甘樫丘の南に小山田遺跡なるものが発掘され、マスコミにも大々的に取り上げられました。 その時に必ず問題となるのが、埋葬者はいったい誰なのか? という問題です。

 私はこうした議論には無頓着。
 「巨大古墳は湿地開墾のモニュメントだ。湿地から取った泥を積み上げたのが古墳と云われるもので、埋葬者は開墾事業のボスだ」なんて言っています。
 勿論こんな私の推論は誰も取り上げません。

 せっかく講座を受けているのですから、素直に先生のご講義を聞かなくては。

 先生の説明によると、飛鳥の巨大古墳を見る時は、その場所に注目すべしと云われます。ポイントは、飛鳥では蘇我氏の勢力範囲と、非蘇我系の天皇家の勢力範囲がクッキリ別れていてことです。甘樫丘の南を境に、北は蘇我氏の範囲、南は天皇家だそうです。

 ご存知のように天皇家と蘇我氏は姻戚関係が深くて、どの天皇が蘇我系で、誰が非蘇我系なのかを見極める必要がありますが、講座では天皇の系図を見ながらの講義となっています。

 この小澤先生の見解は、学会の通説になっているか私には不明です。しかし、古代人だって自分の家の墓を作る時、自分の家や田圃がある近くの場所を選びますよね。喧嘩相手の勢力範囲に、わざわざ親の墓は作りませんよね。

 小澤先生によると、小山田遺跡は甘樫丘に近く、蘇我氏の勢力範囲にあることから、蘇我氏の墓ではないか という見解でした。こうした場所に注目する視点は面白くて、蘇我氏の墓とされる「石舞台」の近くに、蘇我氏の別荘みたいなものが多くあるとか、さすがに専門家の詳しい分析らしくて面白い。

 中身を紹介するとキリがありませんが、なるほどと思える点が多くて、次の講義にも出かけようかなと思っています。

 「でもな~・・・。なんでこんな大きな墓とおぼしきものを作るんやろ・・」
 先生の講義を聞いていても、そんな疑問は解決しません。

 古代史の専門家はすぐに日本書紀や古事記を持ち出して、天皇家や蘇我氏などの豪族の話ばかりに熱が入ってきます。
 「日本書紀や古事記は、闘争に勝った勝者が、自分の地位を確実にするために、過去の出来事を勝手に書いたもんや。歴史書と云えるんかいな・・」 私はそう思っています。神話の世界なんて絵空事でしょうが、何かが隠されている可能性はありますね。

 講義を受けながら、どうしても頭をよぎる疑問があります。
 「天皇陵なるものや豪族の墓を作らされた庶民は、実際はどう考えていたんやろか」
 やっぱり私はへそ曲がり?

 少し話が長くなってきました。次回にしましょうか。
by takeshi_kanazaw | 2015-08-11 06:48 | まほろば紀行 | Comments(8)
 この山の辺の道のウオーキングも、最終目的地の三輪山にたどり着きました。

 「あ~あ、疲れたな・・・・」 出発地の天理から、延々と13キロは歩いたでしょうか。
 三輪山の中に入っていく感じです。
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 まるで熊野古道や木曽路の山の中みたいですが、周囲は大きな木が一杯です。

 彼方此方に小さな社が散在します。 
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 これは貴船神社という、水の神様なんだそうです。京都の貴船も水と関係がある?

 実は今回歩いているのは、三輪山の裏側から正面を目指している感じなのです。
 この三輪山は、山そのものが神体で、大神神社(おおかみじんじゃ) と呼ばれているのです。
 ですから、社にご神体なるものは存在しません。 そして、周囲にはこの貴船神社のような、小さな社が一杯あるのです。

 ドンドンと進むと、なんとなく神社っぽくなってきました。
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 「帰りの電車の時間はどうなってるかな・・・・」
 もうこのころは、名古屋に帰る時間ばかり気になっていました。

 やっとたどり着きましたね、大神神社の大きな社。
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 以前にも、まほろば紀行で車で此処に立ち寄っています。
 「それにしても、なんでこの三輪にこんな大きな社が・・・・」

 話が少し込み入りますが、ここでまほろば紀行の何時もの歴史の話。
 日本は戦前に 万世一系天皇を戴く国 と国民への刷り込みが行われ、現在でもこの種の議論に抵抗感があります。

 「古事記・日本書紀の神話の話はまだしも、歴史の記述に入るとつじつまが合わないことが多すぎる。フィクションが一杯入ってるのじゃないか」 と戦後に王権交代説が叫ばれるように。

 そうした議論の中で、西から来た天孫族が大和に築いた初めての王権は、三輪山を中心に天理辺りまでを勢力圏とする 三輪王朝 だった、 という説が有力です。 その初代の王(天皇)が崇神天皇というわけです。

 この王権交代説は、三輪王朝ー河内王朝ー継体王朝へと交代するというものですが、私はこの説に魅了を感じています。 その後、飛鳥時代ー奈良時代となっていく。

 「そうか、天孫族などの大陸からの外来人が入り始めてから、奈良の大仏さんが出来るまで約500年近くの時間が流れていたのか・・・・・・・」
 コロンブスがアメリカ大陸にたどり着いてから、現在までの500年余とほぼ同じ年月ですね。

 国のまほろば、なんて長閑なウオーキングをしていますが、このまほろばの時代は、人種が入り交り、王権争奪戦が行われ、一方では稲作が広まり、生活のシステムや政治のやり方が変化する、激動の時代 だったのかもしれません。 その変化は、明治維新の変化の数倍の変化だったかも。

 大神神社の正面にやってきました。
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 ビックリしたのは、神社に参拝した殆どの人が、この鳥居を出るときに三輪山に向かって深々と礼をしていました。

 この三輪の近くには日本最古の市場とか、面白そうな場所があるのですが、近代化の波の中に埋没してる感じで、古代のロマンを探すのはシンドイ。

 「もう帰ろう・・・・・」 
 JRの三輪駅から、三輪山をしみじみと。
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 このまほろば紀行、書きたいことの数分の一しか書ききれません。
 現在、古事記と日本書紀を読んでいます。(原資料はすべて漢字なので、口語体の訳本ですが、それでも相当読みづらい)

 日本の古代史を訪ねる まほろば紀行。
 また気が向いたら、どこか出かけましょう。 その時までこの話題は休憩です。
by takeshi_kanazaw | 2014-05-24 12:27 | まほろば紀行 | Comments(4)
 三輪山が近くなってきました。

 なんとなく周囲が聖地?らしくなってきた。
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 大きな檜でしょうか、うっそうと茂っています。

 何やら社みたいなものが見えてきました。
 山の辺の道のマップによれば、桧原神社があるはず・・・。
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 「そもそも桧原神社って何なの?」
 なんとなく古代の社という感じですが・・・。
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 何気なく立札を見ると・・・
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 よく読むと、実に変な?ことが書いてある。 興味津々ですね。

 まず第一は 崇神天皇の時、それまで宮中で祀っていた天照大神をこの地に移したとしている。
 天照大神は天孫族の始祖とされる神様ですが、それをなぜ外に出したのか。

 日本書紀ではその理由が簡単に述べられているようですが、宮中に他の神様と一緒に祭っていると、どうもよくない・・・という感じなのです。 始祖の神様を外にということは、宮中の権力争いや家庭騒動が起こって、そのためにやったことではないでしょうかね・・・。 何かありますね・・・。

 第二はなぜ伊勢の地が最終地になったのか?
 天照大神を祭る社は、彼方此方を移動して、最終的に伊勢の地に。
 我々は伊勢神宮と呼んでいますが、本当は「神宮」が正式名。 伊勢にあるから伊勢神宮と呼ばれるようになったに過ぎないらしい。

 さてさて、どうして伊勢の地が最終的に安住の地になったのでしょうか?
 これについては、歴史は多くを語っていません。(私の知る限りですが)
 なぜ、大和政権の始祖とされる天照大神が伊勢に祭られているのでしょう?

 桧原神社は何も語っていませんね・・・。
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 加えて、名古屋には熱田神宮、関東では鹿島神宮、九州大分には宇佐神宮・・・。全国に多くの神宮がありますね。祭ってある神様はどうなのでしょう、多くは古事記や日本書紀に登場する神様達ですね。

 「どうも地方豪族と妥協、征服して、その地に在った神様達を天孫系の神様に統一したんじゃないかな・・・」
 私はそう勘ぐっている?のです。 各地の神宮があまりにも感じがよく似てる。

 しかし、ホントにどうして伊勢の地に伊勢神宮なるものが出現したんでしょうかね・・・・・。
 案外偶然? それとも必然? 判りませんね・・・・。
by takeshi_kanazaw | 2014-05-23 14:43 | まほろば紀行 | Comments(4)
 山の辺の道も中間点を超えたところに、やけにデカい古墳に。

 「うーん、これはデカいや。 全体像が全然判らないぐらいデカい」
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 大きな堀をぐるりと回ってくると、どうもこれが 崇神天皇(すじん)の古墳らしい。
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 この古墳は 行燈山古墳 と呼ばれていましたが、宮内庁がこれが 崇神天皇陵だ! と定めたそうですが、実際はよく判りません。

 そもそも崇神天皇は10代目の天皇とされて、実存の可能性がある天皇らしいのですが、その存在が確実視されているわけではない。

 少し頭が痛くなる方もいるかもしれませんが、まほろば紀行では避けて通れない、天皇の歴史の話を少し載せないとなりません。

 天皇は123代続いているとされていますが、実存が確実視されているのは26代の継体天皇(けいたい AC 507年~531年)以降らしく、それより前の天皇は存在が確認できないらしい。 この継体天皇自身も北陸からやってきた人で、長らく難波の宮に留まった摩訶不思議な経緯が記録されている。

 「10代目の崇神天皇はどうなってんだ? それなら崇神天皇陵なんてオカシイやないか!」
 まーまー、そう怒らないで。 日本の古代史なんてそんなもんなんです。(素人意見ですが)

 この崇神天皇が実存の可能性があるされるのは、どうも天孫族がこの三輪の地に 三輪王朝 と呼ばれる初代の王朝を作ったらしく、その初代が崇神天皇の公算があるらしい。
 こんな話を続けると、キリがないので・・・・・・。 またの機会に。

 近くの看板に航空写真が載せてありました。
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 周囲の人家と比べると、異様なまでに?大きいですね。

 以前にこのまほろば紀行で載せたのですが、大きな天皇陵を見てどこかピンとこない。
 私は 「前方後円墳は天皇の墓じゃなくて、土地改良事業のモニュメントだ」 と主張。
 
 また変なことを云って・・・とか、このブログの愛読者は、また始まった・・・・と思われる?

 大きな古墳が造られた古墳時代、日本の人口は100万人前後。 恐らく大和盆地周辺でも10万人前後だったのではと推定しています。 単に王様の墓を作るのに、百姓が大勢駆り出されたとすると、とてもじゃないが生きていけない。

 ところが、水はけの悪いところに水田を作り(土地改良)、その事業に参加すれば水田の耕作が認められるとなれば話が違う。 天皇陵と言われる小山は、その改良事業の掘り起こした泥地の土を盛ったもので、改良事業のボスの天皇?の遺品もついでに埋めたのかも。

 エジプトのピラミッドは、ナイル川反乱時期の農民への失対事業だという説もあったりします。日本の天皇陵も実は古代の水田開発事業のモニュメントだったりして。
 天皇陵一つでも、古代の勝手なロマンが広がりますね・・・・。

 崇神天皇陵の近くに、景行天皇陵と言われるものがあります。
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 これもまたデカい。

 景行天皇は日本武尊の父親ということになっていますね。実存するかは判りません。
 この古墳は国道からも近く、周囲を廻れますが、歩くのがしんどくなって・・・。
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 ちなみに 望郷のまほろばの歌を歌った日本武尊は三重県北部で亡くなるのですが、白鳥になって飛んで行ったという説話があり、各地に白鳥伝説が生まれます。 
 日本武尊の古墳? 聞きませんね・・・

 だいぶ南に歩いてきました。 見渡すと大和三山が見えてきました。
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 昨年はこのまほろば紀行で 天香久山 に登りましたね。

 「さー、そろそろ、三輪山が近くなってくるはずだ」
 でも全体像は全然見えません。 ひたすら農家の道を歩き続けます。
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by takeshi_kanazaw | 2014-05-22 15:37 | まほろば紀行 | Comments(2)
 山の辺の道を石上神宮から三輪まで歩いています。

 この道は現在 東海自然歩道 になっています。
 「なんや部落みたいなところに入ってきたな・・・」
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 「それにしてもいい天気やな・・・」 ジャンパーを脱ぎ、シャツのボタンも外して・・・。

 手元に山の辺の道のマップを持って、道標を見ながら・・・
 「フムフム、竹之内環濠集落? 何処にあるの?」
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 奈良という地域は昔からお寺の勢力が強くて、大和は殆どが興福寺領などのお寺の領地?だったとか。ですから、奈良からは大きな戦国武将は出てこなくて、勢い農民はこの環濠集落のように、自衛の掘りを作って身を守るパターンに。

 ドンドンと前へ歩いて行かないと、まだ半分も来ていません。
 「ノンビリした眺めやな・・・」
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 向こうに見える山は、葛城山系でしょうか・・・。そうそう、このまほろば紀行で、葛城古道も走りましたね。

 なんとなく周囲の雰囲気が変化してきました。 
 畑の彼方此方にこんもりした森が目立つようになってきました。

 何やら立札が見えました。
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 「大和古墳群? なんだ俺は古墳に囲まれて歩いているのか・・・」

 しかし、しかし、立札がないことには、決して古墳だとは判りません。
 「これが古墳なの?」
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 古墳の上に家も建っているし、みかん畑もあります。 横の立札には「西山塚古墳」 と書いてありました。

 「せっかく山の辺の道を歩いているのだから、古墳を見なくくちゃ・・・。」
 彼方此方目を凝らして、古墳を探して・・・・。

 「スミマセン、マップでは近くに衾田陵とかいう古墳があるのですが・・・」
 ちょうど郵便屋さんが来たので聞きました。
 「この辺は古墳だらけやから、古墳の名前なんか知らんで。 ちょっと行ったところに森みたいなのがあるけどな・・・。その古墳かどうか知らんけどな・・・」

 田んぼのあぜ道を歩いて、その森の近くまでノコノコと。
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 「立札もないし・・・。これが衾田陵かいな・・・・」

 また触れることになるかもしれませんが、古墳というのは誰が埋めてあるのか判らないケースが多いのです。 はっきりしないうちに宮内庁が勝手に決めてしまったケースもあるらしい。

 「フムフム、これは柿本人麻呂の歌の碑か・・・」
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 歌の意味? 判りません!
 他にも人麻呂の歌の碑が彼方此方に建てられています(現代になってから)。

 古墳銀座みたいな場所を歩いているのですが、立札がないことにはサッパリ。
 「今度は古墳に一杯お墓が建ってるぞ・・・」
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 これは燈籠山古墳というんだそうですが、後世に念仏寺というお寺の墓地にもなったとか。

 古墳というと大きな天皇陵が有名ですが、この一帯には一杯古墳があり、豪族などもこの地域に死者を埋葬していたようです。柿本人麻呂の歌では妻をこの辺に埋葬したとあるそうですから、掘り返せば何が出てくるか判りませんね・・・。
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 「そういえば、石上神宮の近くには古墳がなかったな・・・。 やっぱり神様のいる場所、皆が暮らす場所、死者を埋葬する場所は、それぞれ決まっていたのかも・・・」

 古墳の近くにこんなものが。
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 墓を世話する人がいなくなった墓石を積み上げているのですね・・・。

 「天皇や豪族の墓ばかり注目されるけど、まほろばの頃の庶民は死ぬと、どんな風に埋葬されたのかな・・・。 天皇陵の話ばかりで、庶民の墓の研究報告を目にしないな・・・。」
by takeshi_kanazaw | 2014-05-21 23:57 | まほろば紀行 | Comments(2)

海外や国内の適当に撮った写真の記録


by takeshi_kanazaw