夏になると秋の涼しさが恋しくなり、冬は春の暖かさが欲しくなりますね。
まー、そういいながら一年が過ぎていくのですが・・・・・。
話題が飛びますが、最近ナイフで人を刺したり、バスジャックをしたりする事件が続発しています。 なんで? どうして? 少々困惑している諸氏も多いのではないでしょうか。
「最近の不可解な事件とかけてなんと解く?」
「路傍の石の反乱と解く」
「その心は?」
謎解き問答ふうで不謹慎かも知れませんが、今日はその「路傍の石」の反乱というお話。
「路傍の石」はご承知のように山本有三の小説で、明治時代の没落士族の子供である山田吾一少年の苦労話。少年少女向けの優良図書の代表みたいな作品。
「お前は路傍の石ではない。吾一という名は、吾(われ)一人。世界に一人しか居ないのだ」という教師の励ましの話が有名。
よくサラリーマンは会社という大きな歯車のひとつだという話があります。確かにそうかも知れませんね。振り返って見ると、確かに組織の中で動かされて時間が過ぎていきましたね・・・。
しかし、組織を離れるとその歯車でもなくなって、まさに「路傍の石」みたいなものかも。
「俺が居なきゃあの仕事は廻らない」「私がやってやらなきゃ皆が困る」
まー、少しははそのとおりでしょうが、殆どは本人の錯覚?
その錯覚さえも抱けなくなると、自分の存在感はまったくなくなるのでは?
「俺は路傍の石のようなもんさ」 そう思って不思議はない。
無職やフリーターの立場の人は、職場でも社会でも役割が感じられず、自分が役立っているという錯覚さえも抱けない状況に陥る。自分が「路傍の石」のような存在だと感じるのでは?
個性の尊重、自我の育成・・・・・。
小さい頃は学校でよく聞いた言葉です。
「アンタが大将!」 そう思って大きくなったのに、現実は道端の石っころだった。
「ホントは俺は大将なんだ。世の中が間違ってる!!」
そして世の中がアッという事件を起すか、鬱憤を晴らす事件を起す。
「路傍の石の反乱」といえるのじゃないでしょうか。
本来殆どの人は路傍の石じゃないですかね。
だけど自分の中で自己満足でもいいから存在感を探し続けるんじゃないですかね。
最初から「アンタが大将」なんて嘘でしょう?
路傍の石の小説は主人公が少年時代で終わっています。路傍の石の現実に耐えながら成長していくのですが、明治の人は我慢強かったのですね。彼を支えたのは負けじ魂でしょうね。