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中国三峡下り 中国旅行記

 長江に大きなダムが出来る?
 確か1993年だったと思いますが、大きなダムが出来ると「三峡下り」が出来なくなってしまうと思い、急遽長江中流の「三峡下り」に出かけました。

 経済発展が続く中国では電力確保が大きな課題。それと内陸部の開発も必要ということで、中国政府は長年の願望だった三峡ダムの建設に着手したらしい。  理由はともあれ、とにかく三峡の風景が消えてしまう前に見ておこうという単純な動機でした。

 私の乗った三峡下りのツアーは、重慶から船に乗って武漢までの確か4泊5日の旅だったと記憶しています。
重慶から武漢は5百キロ弱ですから、もっと早く行けるはずですが、小三峡に小船に乗り換えて遊んだり、白帝城に立ち寄ったりして、結構ゆっくりした行程でした。それに、夜の航行は危険なので、夜は岸に船を停泊させていましたので5日間もかかったのでしょう。
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大きな盆地の四川省では大河(長江の支流というか、本流というか)が沢山あります。その流れが山を突き破って華中に流れ込む感じになるのですが、その山間を流れる時に、峡谷を形作ったのが三峡というわけ。

 昔三国志の時代、劉備が蜀の国(現在の四川省)を建てますが、その成立理由は三峡があって他国から攻められないこと。この三峡は船で行くのも難所で、陸路も切り立った崖の連続となります。
 実際に現地で見るとそれが実感できますね。

 このときもプラリの一人旅。写真は殆ど残っていないので、あるのは途切れ途切れの記憶のみ。三峡の20年前の写真はインターネットでも見つかりませんね。やっぱり写真は撮っておいた方が良かったですね。
 また中国旅行記憶の旅みたいになりますが・・・。

 旅の出発は重慶。
重慶では「犬が太陽に向って吼える」というのです。
現地の気候の話なんですが、四川省は意外と南に位置し(台湾と同じ緯度ぐらい)湿気が多い地域で、殆ど毎日霧が発生して太陽はぼんやりとしか見えない。そこで、晴れて太陽が顔を出すと犬が吼えるという話になる。

 出かけたのは夏だったと記憶していますが、どんよりしてやっぱり蒸し暑かったですね。犬は吼えてはいませんでしたが・・・。

 町の印象で一番は運び屋さんの姿。
重慶は坂の多い町で、車や自転車の姿は少なく、目だったのは上半身が裸の運び屋のオジサン達。竹を半分に切った天秤棒で、荷物を運んでいる姿が今でも思い出されます。上半身は赤銅色で、肩に汗を一杯かきながら荷物を運んでいましたね。
今はどうなんでしょうね、あのオジサン達は相変わらず竹の天秤棒を担いでいるんでしょうかね。

忘れてならないのは辛い料理。
四川料理は辛いことで有名ですが、あれだけ夏が暑く、冬が寒い気候なら当然だろうと思いましたね。
「唐辛子が浮いているよ」
「舌が痺れるね、このスープ」
「唐辛子の外側の部分は甘く感じてしまうね」

 中国では味覚の中で「辛(からい)」というのがありますが、舌が痺れるような感覚みたいです。日本の麻婆豆腐程度のものじゃなくて、舌を刺すような辛さでしたね。(参考までに、麻婆豆腐はマーさんというお婆さんが作った庶民向けの食べ物。正式の四川料理には出てこなかった)

 それはさておき、旅の主題は三峡下りのクルージングでした。
 船は千トン以上ある大きな客船で、部屋は結構立派でした。
「クルージングは退屈だね」
 ツアーメンバーの偽らざる感想。
 いくら峡谷を船で行くといっても、日本のライン下りのように次々と風景が変わるわけではなく、数時間は同じような風景が続く。

 日本人はクルージングが苦手じゃないですかね。とにかく時間はタップリあるのですが、どこか手持ち無沙汰。
 台湾人も沢山乗っていたのですが、彼らもマージャンばっかりしていましたね。

 西洋人は違いましたね。
 デッキの椅子にゆったりと腰を下ろし、移り行く風景を眺めたり、本を読んだり、実に時間の過ごし方が上手い。
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 私も少し真似をしてみようとデッキにいたのですが、どうも様にならない。
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 しかし、このデッキでの時間に退屈しなかったのは、たまたま出くわした二人の中国人の登場のおかげ。以下はカタコトの中国語プラスボディランゲージと、主として筆談です、念のため。

 一人は広州から来た若い女性。
「貴方は日本人だからこの電子ゲームできるでしょう?」
 話しかけてきた彼女が持っていたのは、当時はやっていた日本製の電子ゲーム機。
「失礼だけど中国の方?」 (中国人にはこのツアー料金は高いので・・)
「広州から来ました。主人は商売が忙しくて旅行は一人です」
 私は日本でもゲーム機など触ったことがない。
「日本人なのに貴方は下手ね」と彼女。

 それからも一時間以上筆談が続いたのですが、印象深かったのは彼女の夫の収入が一ヶ月3千元という話。当時の中国人の平均月収は百元ですから、彼女の夫は凄い金持ち。若い妻が三峡下りのツアーに乗れるわけです。当時広州ではもう富裕層が生まれていたのですね。

 もう一人は風采の上がらない画家。
 彼は船の中で自分の書いた山水画を売っている。
「同い年じゃないか。俺達」
 筆談で生まれた歳が一緒だったことが判明。それだからどうと言うわけではないのだが、彼にとっては商売の糸口が見つかったみたい。
 それから息子が今大学に行っていて学資が大変だとか、画家の生活は大変だとか・・・。要するに絵を買ってくれという話が延々と続く。

 「俺は貧乏人だからダメ」 一旦は断るのに成功。
 しかし後日彼のしつこさにはまいった。終着の武漢のホテルの部屋にまで押し掛けてきて、結局2万円で買ってしまった。買った動機は彼が同い年というのがありましたね。この絵は今でも私の故郷の生家に飾ってありますが・・・。
私の支払は彼の息子の学資になったのか・・・。単なる口実か・・・。彼は結構真面目そうだったから、多分学資になったのでしょう。
 絵の出来栄えは? うーん・・・マーマーですかね。

 どうも話しが横道にばかりそれていますね。

 三峡下りでは、5日間も延々と長江の上にいるわけではありませんでした。長江の支流は渓流みたいな状態で、その代表が小三峡。小船に乗り換えてその小三峡にでかけました。
日本人にとってはこの風景の方が峡谷というイメージにピッタリですね。
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 この小三峡下りで思い出すのが船頭さんの話。
 彼は四川省の山の中から出稼ぎに来ているらしい。子供の学資(といっても小学校と中学校)を稼ぐために、半年間はこの船頭をやっているという。一ヶ月で60元ぐらいを仕送りしているという。

 「俺の楽しみは、毎晩宿泊所で安酒を飲む晩酌ぐらいだよ」
 ツアーメンバーは誰からともなく、中国の小銭を集めて彼にチップとして渡すことに・・・。“頑張れよ” という感じでしたね。
 中国の農村にも現金経済が浸透し始めたんですね。それも子供の学資という形で・・・・。

 小三峡下りでは船頭さんのほかに、船を引っ張る人が大勢いました。
 現代では考えられないのですが、川を上るのには何らかの動力が必要ですね。エンジンがない時代には馬か牛か人間か。忘れていましたね、船で運搬するには船曳人足が大勢必要だったということを。
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 旅の途中では白帝城やいろんな史跡に行きました。どこかではボート競走みたいなアトラクションをやったり・・・・。港に着くと沢山の小船が寄ってきて、食べ物が売られたり・・・・。結構いろんなことが楽しかったですね。

 終着場所の武漢に着いた頃は少々お疲れでした。
 武漢で有名なものは黄鶴楼。たしかもうコンクリートで作られていましたね。
黄鶴楼から見る長江大橋。
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 ところで三峡ダムはもう完成したのでしょうかね・・・。
 私の見た三峡の風景は、もう見ることが出来なくなったでしょうね、きっと。
 次回は黄山のお話の予定。
by takeshi_kanazaw | 2008-03-28 15:12 | 中国滞在記・旅行記 | Comments(0)

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