ズーとバスの中からの観光ですが、これがシルクロード・河西回廊の旅でもあります。
「そうか、高速道路を走るのか・・・。 昔はゴビタンの道を走っていたんだけどな・・・」
我々が走った高速道路は、黄海に面する連雲港(江蘇省)からウルムチ(ウイグル自治区)まで、中国を横断する6000キロの高速道路の一部になります。
車窓から見えるのは雪を頂く 祁連山脈(きれんさんみゃく) と石ころと砂の平原。
「昔より緑が増えたな・・・・」 27年前頃に同じ道(平道)を、バスに揺られて通った時より緑が多い。
中国の西域では、高速道路や高速鉄道が増えました。 この道路や鉄道を砂から守るため、左右を緑で保護す必要から、土止めをし、木を植え、そしてそれを維持する努力が続けられています。 中国の緑化運動の中心は、この道路や鉄道を砂から守る活動が主体のようです。
この道をさらに酒泉、敦煌、嘉峪関、そしてウイグル自治区のトルファンへと西へ行くと、乾燥度合いが進んで、全く緑のない情景が広がるのですが・・・・。 まー、もうそんな時間のかかる旅をする人はもういないかも。
「さー、昼ごはんだ、昼ごはんだ」 武威の町へ降りて、昼御飯です。
まー、食事の話は何度も触れたのでくどくなりますね。 ただ、スイカが美味かったですね。味は日本とほぼ同じ。
レストランの前に、果物を売る屋台が。
桃、スモモ、そしてフットボールのような形をしたスイカ。 オアシスの果物は美味いですね。
その横で、オジサンたちが中国式のカードゲーム。 中国の田舎の情景でいいですね・・・。
武威の町はもう人口が100万を超える大都会。 昔の静かなオアシスの感じはありません。 しかし、町の彼方此方にノンビリしたムードも残っていますね。
さて、この武威の町ですが、そもそもは古代から漢族の西域制覇の前線基地だった町です。
この町の観光はまずこの像のある場所から。
馬の蹄の下は燕。 だから「馬踏飛燕」 と言うのですが、この河西回廊の象徴的な像です。
少し余談になりますが、この像が象徴的とされる理由をお話します。
古代から中華の国は北の騎馬民族の侵攻に悩まされ続けます。 農耕民族と遊牧民族の戦いなのですが、遊牧民族からすれば重要な草原を掘り起こす農耕民族は、蔑視する輩ということになります。そこで戦いが起きますが、何時も勝つのは遊牧民族。 馬を駆使する騎馬隊があるからですね。 漢族が数倍の兵隊を派遣しても勝てない。
前漢の武帝は漢族も騎兵隊を持たないと勝てないと、馬を入手することに拘り、西の大月氏まで張騫を派遣したことは有名ですね。 この武帝の時代に乾坤一擲とばかり、漢族の騎兵隊を結成します。 この騎兵隊の将軍が青年将軍の 「霍 去病(かく きょへい)」 。 彼の指揮する騎兵隊は匈奴の兵を次々と破り、この河西回廊を漢族が制する体制を作り上げます。
この霍 去病、実は肺病を病んで24歳で亡くなります。 その後はだんだんと漢族の騎兵の力が衰え、また西域は騎馬民族の支配に服するのですが・・・。 彼はもう2000年も前の人ですが、いまだに人気があって、河西回廊に旅すれば、彼方此方に 霍 去病 の颯爽たる姿の看板があったのですが・・・。
余談が長くなりましたが、この 「馬踏飛燕」 を大事にする西域の雰囲気が判ってもらえたでしょうか。
現在の武威の町にも古い4世紀頃の基地の跡が残されています。 その基地の中には多くの馬の像が埋葬されているそうです。 そのレプリカが飾られています。(雷台公園)
その遺跡を見学したのですが、中の様子は撮影禁止。 遺跡の下の暗いところに、小さな青銅の馬の像があるだけでした。
もう観光客もあまり来ないんでしょうか。 我々を珍しいそうに眺めている係員。
まー、ノンビリムードのプラプラ観光という感じですが、こんな散策もいいですね。
遺跡の庭に咲いていた花。 見たことがないない花ですね・・・・。
そして、何やら道教のお寺がありました。
道教のお寺があるということは、前線基地だった武威の町も、その後は漢族が住む田舎町へと変貌していった証なのかもしれませんね・・・。
いつものようにバス旅なのですね。
昼食のデザートスイカが見ただけで美味しいのがわかります。
オジサンたちが中国式のカードゲームはのんびりムードですね。