野麦峠は昔から、富山の塩サバを高山から信州へ運ぶ、一種のサバ街道だったらしい。明治から大正にかけては、岡谷など諏訪湖周辺の生糸工場へ、飛騨の貧しい農家の娘(13歳から行ったらしい)が、この野麦峠を超えて年季奉公のスタイルで働きに行ったとか。
この女工哀史というべき話は、昭和43年に 山本茂実氏のルポルタ-ジュ 「あ~野麦峠」として書かれ、映画化もされました。 峠にある お助け小屋 の壁に飾ってあった写真です。
たぶん、映画を観たり、本を読まれた方も多いかもしれませんね。
「本当に飛騨が見えるのかな・・・・」 碑のあった場所から西を見ると。
車で走って来た道は、昔の野麦街道とは所々で異なるようです。現在はハイキングコースとして、旧道を歩くことができますが、私たちはお腹が空いていたので歩かず。
お助け小屋と称する古い建物で、野麦峠そばを食べる。
食堂からみた野麦峠の紅葉です。
「帰ったら本を読むわ。あ~野麦峠を読むわ」と妻殿。(現在彼女は図書館で本を借りてきて、熟読中です)
この野麦峠を越えるルートは、昭和に高山本線が開通したことによって、利用されなくなったようです。 確かに雪の中を歩くのは至難の業でしたでしょうからね・・。
「それにしても、標高が1500m付近はもうすっかり紅葉や」
野麦峠(標高1,672m)のすぐそばの山です。
「せっかく来たから、帰りは御嶽山の麓を走ってみよう」
さらさら越えは、諸説あるのですが、ザラ峠ー針ノ木峠説が有名です。
でも、このルートは、北アルプスの稜線をふたつ越えます。
現実的に考えると、野麦峠経由だとも云われています。
富岡製糸場が世界文化遺産に登録されましたが、人間扱いされずに働かされた少女たちが他にいたことも、忘れてはならない大事な記憶だと思います。
実は私は映画も見ていないし、本も読んでいない。
ただ現場を走ると、これは大変な道だと実感します。
女工哀史だけじゃなくて、歴史は時には残酷で悲しいですね。
今でも似たことが起きているのが、人間社会ですかね。