今年ももうすぐ終わりですね・・・。
この時期は過ぎていった時を意識してしまいますね。
過去を振りかえれば、長い間何時も時間を意識した生活を続けていましたね・・・。
スケジュールという厄介なものとの格闘。何だったのかな~、あの時間は。
名古屋栄のオアシス21の時計。文字盤が面白い。
歯車は動いていて、コチコチと確実に時を刻んでいます。
最近は自由時間を満喫し、ゴールデンタイムを過ごしていると思っているのですが、それでも時間はドンドン過ぎていきますね。止まることなく時が刻まれていく感じが、いかにも不思議ですね。
そんな長い時の流れを感じる反面、目の前の周囲の老人の人達が気になります。日常生活もままならぬ姿を垣間見るにつれ、元気だった人が年老いていく姿はいかにも侘しいものです。
時間という姿の見えない敵に攻め続けられたようでもあります。元気だった頃を知っている者には辛くさえありますね。盛者必衰の理ですかね・・・。
という私も、もう老人になっているのですが、本人が自覚していないだけかも。
そして、生けるもの全ては、限りある時間しか存在出来ないことも。
これも摂理なのでしょうが、どうあがいても避けることは出来ませんね。終わりが必ず訪れるのは、時間という大きな流れが全てを押し流すように思えてきます。
時間という要素はいったい何なんでしょね。
時間には質量がない。概念だけで目にも見えない。
昔の人は、時の流れを水の流れで掴もうとしたかも知れません。
なんとなく判るような気がしますね。
飛鳥にある石の遺跡。
水時計だったのか、あるいは他の目的か。
まだその定説はないみたい。
しかし、時間という摩訶不思議なもの、これほどまでに大きなパワーは他にありませんね。ナンピトも逆らえない不思議なものです。
肉親が年老いていく姿や知り合いが病を得た話など、わが身につまされる感じもして、「時間というのは、一種の暴力だ」 最近そう思ってしまうのですが・・・。
古今東西、ズーと続く摂理なのでしょうね・・・。
この感覚の中身は、2500年前 ブッダ が若いころに出家の動機となった想いと同じで、仏教とか宗教とかに関係なく、人間の自然な感性なのでは・・・。
最近仏像を見る人が増えているそうですが、それを現代日本の仏教と無理に結びつける必要もなく、見たいから見る でいいんじゃないでしょうかね・・・。ご利益を求めるというより、無意識に日常から離れた時間の流れを求めているのかも知れませんね。
奈良興福寺の阿修羅像。
現物の写真撮影は出来ませんので、お寺で売っていた写真を購入し、その写真を自分でカメラで撮ったものです。
なかなか良い仏像ですね。
時計の中の機構も面白いですけれど、時計を設計する人の頭の中を見てみたいです(笑)