カテゴリ:中国滞在記・旅行記( 15 )

 以下のブログは1986年2カ月中国江蘇省に滞在した話から、以後、桂林や三峡下り、3千キロ列車の旅など、各地を旅行した話をまとめて書かれています。中国シルクロードの話は別のカテゴリでまとめてあります。


 最近中国を旅すると「貴方は化石みたいな人ですね」と中国人に言われます。

「昔は上海も落ちついた町で、テレビ塔なんかなかったし、自転車が一杯走っていてさ・・。第一百貨店の一階売り場は、自転車と洋服が主力商品だったよ。鎮江の町なんかメイン道路にロバが荷馬車を引いていたんだ。自動車のクラクションをいくら鳴らしてもダメでね」
「何時頃の話ですか?」
「そうだね・・・20年以上前の話になるかなー」
「私が小学生に行く前ぐらいの時代ですね。よく覚えていないわね」

 下の写真は当時の上海・南京西路、第一百貨店の交差点の様子です。
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私が始めて中国に行ったのが1986年ですから、すでに22年も時間が経過しています。その間の中国の変貌振りは、お話するまでもないですね。私も毎年のように中国を訪問したのですが、行く度に町の景観も、人の表情も、雰囲気も凄いスピードで変化していきました。

「昔の中国はよかったなー、現在の中国は落ち着かなくて。あのグロテスクなテレビ塔は嫌だね」
と旅行者の私の意見。
「私は今の中国が好きです。昔の中国は貧しくて、不便で嫌いです」
とそこで生活している中国人の娘さんの意見。

最近思うのですが、この20年余という時間は、ちょうど日本の昭和25年から大阪万博の頃までの期間に相当します。この間の日本の変化を思い起こせば、これまでの中国の変化も別に驚くに値しないのでは?  戦後の苦しい時代がよかったという若者は多分いませんよね。大阪万博の頃に戦後の日本を懐かしむ外国人がいたら、やっぱり「化石人間」と感じるかもしれませんね。

そんな化石人の私が書くのですから、これから書く中国紀行記はきっと古い時代遅れの中国談義になる公算が強いですね。でも文化大革命や開放政策、南方講話などの変遷を経て今の中国があるのですから・・・・。

次回以降、出来るだけ時間の経過に従ってお話を書くつもりですが、多分何回も脱線するだろうと思います。また中国は広いので、訪ねた都市(多分30以上)のお話はまとまりがつかないかもしれません。どうなりますか・・・。
by takeshi_kanazaw | 2008-03-30 23:52 | 中国滞在記・旅行記 | Comments(0)
 1986年6月、初めて中国の土を踏みました。
 その頃中部国際空港は勿論ありませんし、名古屋空港から上海へ飛ぶ便もなくて、大阪空港(といっても伊丹空港です)から上海空港(虹橋空港)へのフライトでした。古いね、話が・・・・。

中国の第一印象。「なんて人が多いんだろう!」
次に「近くにこんな人が大勢いる国があったんだ。知らなかったなー」

 上海の町はまさに人だらけという感じでしたね。おかっぱ頭のオバサン、無精ひげのお兄ちゃん、化粧をした娘は殆どいない。そして道には2連結のトロリーバスが走り、自転車が雲霞の如く行きかう光景。
「フー・・・」 私は圧倒されましたね。
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 この訪中は2ヶ月間無錫や鎮江の工場を廻ったのですが、どの場所でも人の多さは凄かった。上海から南京に至る長江沿いは「蘇の国」現在の江蘇省で、中国でも有数の米作地帯です。長江と繋がった運河が縦横無尽に地域をカバーしています。ちなみに江蘇省の人口は確か8千万人。ヨーロッパの大国並ですね。
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 2ヶ月はさすが長かったですが、日が経過するにつれてそこに馴染んでいくと、町のちょっとした風景が不思議と懐かしさを感じるようになりました。

“俺が育った子供時代の雰囲気に似ている・・・”

 中年以上の方が中国を訪問すると、私と同じ感じを抱かれるようですね。
 下の写真は、確か上海の小学校の風景ですが、自転車のお爺さんの表情がとてもいい。私の小学校時代もこんな風だった。
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 次は無錫の町で買い物に市場を訪れた時の写真です。
 混雑する市場、買い物をするオバサン、市場の前でたむろするお兄ちゃん達。この雰囲気が肌にしみ込んでくるというか、懐かしさすら覚えてきましたね。
この感触が私を何回も中国へ行かせた最大の理由かもしれません。
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 2ヶ月間は結構?業務にいそしんだので、あまり観光地の写真が残っていませんが、思い出の糸を手繰りながら次回以降話を続けます。
by takeshi_kanazaw | 2008-03-30 22:06 | 中国滞在記・旅行記 | Comments(0)
 無錫は古い歴史を持つ、しっとりとした町でした。

琵琶湖の数倍という大きな湖の太湖が広がり、その畔に開けた町です。町の中を運河が走って、ちょっと蘇州と雰囲気が似ている面もあります。上海から汽車で3時間ぐらいだったように記憶しています。その当時から町の半分は工場が多く、江蘇省では有数の大きな工業都市でもあります。

そうですね、無錫は「無錫旅情」という歌謡曲でご存知の方が多いと思います。古いカラオケで無錫旅情を歌うと、バックに私が訪問した頃の上海や蘇州の風景、そして無錫の町の鹿頂山から見える太湖が出てきます。
もうないでしょうね、あのカラオケ。久し振りにカラオケに行くか・・。

カラオケの話はさておき、この無錫に一ヶ月滞在したのですが、宿はまさに太湖の畔の湖浜飯店。飯店というのは中国ではホテルの意味で、大きな庭園が湖まで広がっていました。
当時はこの町で外国人が泊まるホテルは、ニクソン大統領が泊まった何とかホテルと、この湖浜飯店の2件だと聞かされました。 

最近ではこんな優雅なホテルになかなか巡り会えないですね。実は10年後の1997年に同じホテルに行ったのですが、設備が近代化され、庭園にはネオンがきらめく遊戯施設が出来ていました。そうそう、太湖の畔に無錫旅情の碑まで出来ていました。
やっぱり昔の方がよかった!
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 近くには古い離宮みたいなお寺?の庭が広がって、ノンビリと散策できました。殆ど観光客はいませんでしたね。
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 無錫の街中は結構賑やかでしたが、車はホントに少なかった。白壁の家並みも残っていて、ノンビリした雰囲気がありました。
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 太湖の遊覧もチャンとやりましたよ。鹿頂山にも登りました。当時の遊覧船は凄い龍の飾りがあって豪華なものでした。
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 太湖は結構水が綺麗で、此処で漁をする船もよく見かけました。中国では船は押すように漕ぐんですね。ここで捕れる小エビが美味く、その塩茹でをホテルでよく食べましたね。
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 湖の周囲は真珠の養殖がされていました。淡水真珠ですね。無錫の有名なお土産品なんですが、粒が小さく不揃いで帰国後あまり人気はなかったですね。
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 当時は実にのどかな風景だったのですが、3年前にも太湖に行く機会があってビックリ。周囲はマンションが林立し、湖は異臭を放っていました。同じ無錫の町とは信じ難い状況でした。ここでも20年という月日を実感させられました。
by takeshi_kanazaw | 2008-03-30 21:07 | 中国滞在記・旅行記 | Comments(0)
 別に自己PRをしようとしているのではありません。
 単に中国の人が、私が黒板に日本語を書いているのに、中国語を書けると誤解をしたに過ぎません。
「先生は(一応その時は先生役を演じていました)中国に来て一週間も経たないのに、黒板に中国語が書けるのですね。凄く頭がいいんですね」
 まー、お世辞が半分以上でしょうが、集まった100人近い聴衆者は、私が黒板に書いた内容がほぼ70%程度は理解できたというのです。

“当然でしょう。日本は中国から漢字を習ったんだから。日本語の漢字ばかり書けば中国人は判るさ!!”

 無錫では一ヶ月間観光ばかりしていたわけではなく、結構業務にいそしんでいたのです。
下の写真は私が講義?をしているところを、同行した同僚が撮ってくれたものだと思います。チョット見難いですが、写真の右側に「人、物、金、情報」という字が見えるでしょう? 日本語ですよね。でもこの文字で中国人は正確に内容を理解します。生意気にも企業経営の基本を講義していたみたいですね。
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 実は訪中する前に少し中国語を勉強したのですが、語学音痴の私は殆どダメでした。特に発音が難しい。4声とかいう声の上げ下げが無理。
しかし、日本語(漢字)さえ書ければ、筆談は意外と可能ですよ。
例えば
 「我是日本人」・・・私は日本人です。
英語で言えば「 I am a Japanese」
 「是」・・・は日本語で言えば「なり」で語順を英語風にすればよい。

便利なのは「的」 英語の「of」 ですね。
 「我的愛人是美人」 私の奥さんは美人です。
この程度でも結構筆談は可能です。このワードソフトでは中国の漢字が上手く出てこないのでこの辺で止めますが、シルクロードの旅で蘭州の列車で1時間ぐらい列車の乗務員と筆談できたのですから。

 実際の発音は殆ど中国の人の口真似でした。日常では中国の人は習ったようには発音しません。「好(ハオ)」にしても「好的、好的」(多分、そうだ、そうだとか、うん、うんみたいな感じ)は「ハダ、ハダ」にしか聞こえません。
 私は中国語はまったくといっていいぐらい出来ませんが、日常よく使う短い言葉の私の発音は、意外と中国人には聞き取りやすいようです。

 中国の人達は友好的で、2ヵ月間は忙しいけれども楽しい時間が多かったですね。しかし、やはり外国ですから多くの失敗もあって、数えたらキリがないですね。
 言葉の上の失敗で忘れられないのは「不要」
 日本人なら意味はすぐ判るし、発音は「プヨウ」ですから簡単。
 失敗事例は工場の説明か案内をしてやると申し出があった時。理由は忘れましたが、「結構ですよ。有難う」という感じで「不要」と直接言ってしまった。
相手の顔色が変わりましたね。
「不要!」という言い方は、中国人には「そんなのいらねえよ!」になるらしい。本当は「不要、不要。謝々」。軽く重ねて言うと柔らかくなるそうです。
「生兵法は怪我のもと」ですね。

 今度は少し自己PR。
 下の写真はおそらく自動車部品工場での発表会の時の様子だと思います。どうも、日本の自動車産業の生産構造について喋っているようです。
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多分記憶では、次のようなことを喋ったと思います。
20年前の中国では乗用車の生産が少なかったんですが、「10年後、20年後、中国が日本と同じぐらいの自動車を生産するようになる。そうなった場合、工場は10倍とか50倍の規模になる可能性があるので、今後そんなイメージで頑張れ」そんな主旨だった。
 聴衆は目を光らせて聞いていましたね。
 
 20年後の現在、中国の自動車産業はほぼ千万台となって私の予想は的中したのですが、部品の大半は日本などとの合弁企業の手で生産されています。行った工場が合弁企業を立ち上げたかどうか確認していませんが、成長の波に乗った中国企業は10倍、50倍はおろか、凄い成長をしていますね。
中国の人達にとって、将来像を提示できる私の話は貴重だったのでしょうね。まさに自己PRでしたが、現在も中国には大きなビジネスチャンスが一杯あるような気がします。

今後中国で伸びる分野? 何でしょうね・・・。
多分「流通業」 日本の商社や問屋的機能みたいな商流の分野。
まだまだ中国の経済成長は続き、消費は拡大しますね。そんななかで流通機能は重要で、物流機能と商流機能が欠かせませんね。
私の予想は当たりますかね?

次回は「社会主義的市場経済?」の話を書きます。少し堅い話が続きますが。
by takeshi_kanazaw | 2008-03-30 19:24 | 中国滞在記・旅行記 | Comments(0)
「市役所の温度計は間違っているんじゃないか?」
「もうとっくに35度を越えているよ。こんなに暑くちゃやってられないよ」
 これは訪問した工場で、現場の人が言っていた言葉(通訳を介して)です。

 私達が訪ねたのが6月から8月という暑い時期で、南京などは中国3大熱釜といわれるくらい、この地方は暑い。勿論冷房はないので、工場の現場は蒸し風呂のようになります。
当時の中国の決まりでは、35度を越えると労働者保護の意味から、自動的に休業する仕組みになります。それで紹介したような会話が頻繁に行きかうことになります。確かその日は休業にならず、工場長が全員にアイスクリームを配ってなだめたと記憶しています。

 下の写真はその工場のものか不明ですが、殆どの工場ではランニングシャツで作業していました。一週間同じ工場にいますと、工場で働く彼らの気持ちも判らないこともないと思いましたね。「大釜の飯(親方日の丸と同意)」と非難する意見が多かったですが、企業という概念が薄い以上、改善意欲や愛社精神を持てというのは酷というものです。
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 確か中国が対外開放政策に転換したのは、文化大革命が終焉した1970年代でした。訪問した1986年当時、国の政策は沿岸部に開放区を作って外国資本の受入れなどを進めていましたが、一般の人は戸惑いの色を隠せません。   それまでは全てが国営工場みたいなもので一応生活が保証されていたわけですから、一般の労働者は将来への不安が先になります。一部の人は新しいシステムを歓迎していましたが、庶民は得てして保守的なものです。

 労働者の味方である中国共産党が、市場経済に大きく舵を切ったのですから少々の混乱は覚悟のうえだったのでしょう。
しかし「貧しきことを憂わず。等しからざるを憂う」から「黒い猫でも鼠を取る猫はいい猫だ」へ簡単には変われませんよね。

 下の写真は訪問中に度々開催された討論会の様子です。
 日本から専門家が来たから、市の関係者や大学の先生、各工場の幹部が集まって議論しようという趣旨のようでした。
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多勢に取り囲まれて虐められた? 意外とそうでもなかったですね。
私も若かったし「めくら蛇におじず」でしたから、日本を代表しているような気分になって、結構議論しましたね。

まだ覚えているのは市の物価調整課(記憶では)の課長との議論。
計画経済では個別に物価を決めるのは重要な要素で、その課長は偉い人なんです。計画経済の申し子みたいな存在。
私の主張は「競争は成長を促す」
彼の主張は「競争は無駄」
通訳を介してですが、私と彼の議論は延々と続き、とうとう話題が愛国心にまで及びました。二人とも感情的になって、「君は国を愛さないのか!」とまで言われました。私の同僚も私の袖を引っ張るし、遂に通訳が訳すのを中止。
中国語と日本語で喋りあっても喧嘩にならないですね。

私がこだわったのは、中国経済が市場経済化へ進むことは明白でしたから、物価調整課の課長さんは頭を切り替えないと、本人が苦労すると思ったからですが・・・。その後どうされたでしょうね、あの課長さん・・・。

当時中国政府が掲げていたのは「社会主義的市場経済」
具体的に何なのかよく判らない。私と議論した課長さんも判らなかったのではないかと思う。一緒に仕事をした中国人に聞いてもよく判らないという。その時は、市場経済へは移行するが、資本主義的市場経済は目指さないという意味だろうと思ったのですが。

その後の中国の動きを観察しても、何が社会主義的市場経済かわからないままですね。
ただ、この社会主義的市場経済の意味するところは大きいと思っています。日本でも中国でも「格差社会」は大きな社会問題になり始めていますね。
資本主義的市場経済はどうも格差を生み出す必然性があり、何らかの社会的な補填が必要な気がします。私は中国政府の動向を注視していますね。
日本政府? 日本には明確なテーゼはないでしょう。

このテーマは自分でもよく判らなくて、多分私の勉強不足のせいなんだろうとは思います・・・・。
まだ文化大革命の話などをしてみたいのですが、堅い話はまたにして、次回は長江や蘇州の観光の話にします。
by takeshi_kanazaw | 2008-03-30 18:10 | 中国滞在記・旅行記 | Comments(0)
 私は長江が見たい。大河長江が見たい。
 まるで子供みたいですが、とにかく長江を実際自分の眼で見たいと思いました。上海で見られる支流じゃなくて、本流の長江が見たかった。
幸運にも、長江の北岸の南通に知人に会いに行くことになって、念願の長江を渡ることが出来ました。

当時は長江に掛かる橋は南京と武漢ぐらいしかなく、無錫から自動車で3時間ぐらい揺られ、やっと川岸のフェリー乗り場に到着。すでにトラックや長距離バスが長い列を作っていました。川は多くの恵みを与えてくれますが、長江ぐらいの大きな川になると、橋を架けるのも大変ですし、簡単には渡れない。ちょうど瀬戸内海を船で渡るような感覚ですね。
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 長江は南通あたりが一番川幅が広くて、とても対岸は見えません。20キロぐらい幅があるそうです。(ホントかなー、でも対岸が見えないのは事実)
「凄いね!」
 私はフェリーの船上で一人で喜んでいましたが、同行した中国の人はどうしてそんなに面白いのか?という表情。
 川の中ほどで上流を見ると、なんと川面が水平線みたいに見えて、しかも海で見るように水平線が少し彎曲している。
「見て、見て! 水平線みたいだ。しかも少し凸面のように見えるよ。凄いね、長江は凄いね! まるで海みたいだね!」
「・・・・・・・」
 同行した中国人はまるで無関心。
 長江の旅はどうも私一人が喜んでいただけで、同行してくれた中国の人達には面倒な長江渡りだったようです。
 
 この後に黄河や広州で珠川、東南アジアのメコン、ヨーロッパでドナウ、エジプトでナイルを見ましたが、その水量、川幅からして長江のほうが断然大河の風格がありますね。アマゾンやミシシッピは見ていないので、何とも言えませんが・・・・。

 話が川の論議でまた横道にそれました。
訪れた南通はノンビリした田舎町で、市の人口は5百万を超えるそうです。しかし、当時の都心部の人口は30万人程度。外国人が泊まれるホテルは一つだけ。しかもビジネス事務所がないので、そのホテルに名古屋の銀行の事務所もありましたね。今は知りませんよ。恐らく南通は数百万の大都市になってるかも。

 下の写真は確か南通の長江の川岸で見つけた「漁」の様子。
四角い網を竹で囲い、四面体のように竹棒を組んで、網に魚が入ると網全体を引張り上げる。写真では少し判り難いですが、右側に魚がくるまで川岸に座って待つ場所が見えます。
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“うーん・・・。何とも優雅な? 少々じれったい方法だね”

 長江に関連して、私が見たかったもう一つの場所は、大運河。
 確か北から長江を越えて杭州まで、大きな運河があるはず。長江と交わっているはずだから、その現場が見たいと思いました。
 「国の重要な施設ですから、外国人は見ることが出来ません。しかし、写真を撮らないという約束で、何とか許可が下りました」
 と言うことで写真はありません。見学すると運河は長江の上でも下でもなく、水位調整をする設備があって、運河を航行する船は全てその設備の中に入って水位が調整された後に、運河なり長江に運行していきます。運河ではよくある方法(パナマ運河がそうですね)でした。
 
 次回は蘇州観光です。
by takeshi_kanazaw | 2008-03-30 17:41 | 中国滞在記・旅行記 | Comments(0)
 1986年中国江南地方の2ヶ月滞在の間は、結構?業務に精励していました。しかし中国の方も心得たもので、日曜日には周辺の観光地を案内してくれました。こんな時間は私にとってはまさにホリデイで、ボケーと観光地を歩いたというのが実情です。
 蘇州に出かけた日は通訳担当の人、仕事仲間、それに金庫番の総務部長さんなど4~5人の方が付き合ってくれました。彼らはせっかくの休日を返上してくれたのでしょうね。

 蘇州は説明するまでもない観光地ですね。中国のベニスといわれるぐらい運河が多く、文人を多く出したところです。そうそう、両面刺繍が有名で、絹織物の産地でもあります。観光地は虎丘、寒山寺、拙政園など一杯ありますね。
 しかし、恥ずかしながら当時私は蘇州のことも、有名な観光地のことも全然知りませんでした。ただ、なんとなく「月落ちて鳥啼き・・・、寒山寺の鐘・・」という漢詩をおぼろげに記憶しているだけ。

― 参考までに調べた結果、この漢詩は晩唐の詩人張継が詠んだ<楓橋夜泊>
「月落ち烏啼き霜天に満つ、江楓漁火愁眠に対す、姑蘇城外寒山寺、夜半の鐘客船に到る・・・・」―
 
「え?! 此処が寒山寺なの? 寒山寺は山の中にあるんじゃないの?」
 根拠はないのですが、私は漢詩のイメージから、寒山寺は街外れの山の上にあって、月が照った夜に鐘が鳴る情景を思い浮かべていたのです。ところが連れて行かれた寒山寺は、薄汚れた運河の傍の家屋が一杯ある街中にありました。
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 まー、観光にあまり意欲がなかったので、そんなに幻滅感も持たず、プラプラとお寺の中に入りました。
 一番に目に入ったのは、例の漢詩を書いた掛け軸を売っているお店と、薄汚れた黄色い僧衣を着たお坊さん。
「あのお坊さんはどうも威厳がないね」とついつい私がつぶやくと
「お坊さんも国家公務員ですから」と中国の通訳担当。
 当時はまだ文化大革命の影響が残っていて、お坊さんの権威も回復していない状況でした。

 当時の記憶はそれ以後何処に連れて行ってもらったかはなはだ曖昧。確か虎丘はイタリアのピサの斜塔のように傾いていて修理中だったとか、明代の庭園だとか・・・・。

 3年前に蘇州に立ち寄る機会がありました。再度寒山寺を訪れましたが、付近は観光保存地区みたいな感じで整備されていました。この時はカメラを持っていましたから、鐘堂や付近の家並みを撮ってきました。
 “坊さんがいないなー、汚れた僧衣を着た坊さんがいない”
 綺麗になり、観光地化したお寺にチョット寂しさを感じました。
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拙政園にも行きました。どうも20年前来たお庭のような気がしましたね。相変わらずお年寄りがたむろして、中国らしい雰囲気が残っていました。
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 江蘇省に2ヶ月滞在したのがきっかけで、どうも中国のことが気になるようになりました。そして、どこか懐かしさを覚える風景に魅かれ、毎年のように中国旅行に出かけるハメになりました。
 次回以降はそんな中国旅行のお話をしていきます。
by takeshi_kanazaw | 2008-03-30 16:19 | 中国滞在記・旅行記 | Comments(0)
 「シェンエン」と言っても何のことか判りませんよね。
 これは20年前に桂林に行った時に、群がるように押し寄せた物売りの「千円、千円」の掛け声です。桂林の付近の農家のオバサンが俄か売り子になり、汚い手に扇子の束などを持って、「シェンエン! シェンエン」と日本人観光客を追い回すのです。

 日本人がもっと安くしろというと、扇子の束をもう一つ積上げて「シェンエン」を繰り返す。私の見たときは、扇子5本いりの束が最後に3束でシェンエンになっていましたね。買った人は、後で扇子を15本も買ってしまったと困っていましたがね。
 
 風光明媚な桂林のお話を始めるのに、最初から無粋な物売りの話をしましたが、桂林というとどうしてもその印象が強かったのです。
この桂林式の売り方は一時中国ではやりまして、日本人を見たら「シェンエン」を連発する売り子が彼方此方に発生しました。この当時中国では労働者の一ヶ月の収入が5千円程度でしたから、千円は凄い大金でしたからね。多分現在でも農民の現金収入は少ないですから、田舎の観光地に行けばまだ「シェンエン」の声が聞けるかもしれません。

 それはさておき、桂林に行けばお決まりの璃江の川下りですね。
 この旅行は私の第2回目の訪中になるのですが、珍しく妻殿が同行してのノンビリ観光でした。そのために僅かに桂林の写真が残っています。

 小さな山みたいなのがピョコン、ピョコンと一杯あって、その間を川が流れている風景は中国の代表的風景として有名ですよね。それはそれとして綺麗だったですよ。日本にはない風景ですし、世界でも珍しい風景ですね。
 その後世界遺産になっている?かもしれない。
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 実はこのピョコン、ピョコンとした山は、桂林の町や周囲の田圃にも一杯ありまして、璃江の川沿いだけにあるとばかり思っていましたので、町中や田圃で見ると何か奇異に感じましたね。しかし、霧でも出ればまさに山水画の世界ですよね。

 私は周囲の風景より、むしろ川で漁をしている漁民の姿が印象的でしたね。別に観光客目当てではなく、日常生活として黙々と漁をしている姿が周囲の風景と凄くマッチしていました。
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 写真では少し判りにくいのですが、船は孟宗竹を3~4本縄で縛ったもので、これが結構浮力があって強いみたいです。殆どの漁民はこの方式の船で漁をしていましたね。

 漁のやり方は「鵜飼い方式」 観光じゃなくて、本当に鵜を使って漁をしていました。中国の北部ではこんな風景は見たことがないので、長良川の鵜飼は中国南部から伝わったのでしょうかね・・・。
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 その当時の桂林の町は、人口が10万人ぐらいの小さな田舎町でした。
当時の中国のホテルはお客に自転車を貸し出してくれ、代金は1~2元ぐらいだったと思いますが、桂林のホテルに着くとすぐに自転車を借りて、妻殿と二人で桂林の町の探訪に出かけました。私はすでに2ヶ月間の中国滞在を経験しているので、別に言葉が通じなくともそんなに気になりませんでした。

小さなお寺や人が集まっている市場など、二人で自転車に跨って廻りましたが、無錫などの江南地方と少し感じが違って、うるさくて騒がしかったですね。
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 市場で買った油っぽいチマキ(五目御飯を葉っぱでくるんだもの)は結構美味しかったですね。確か1元もしなかったと記憶しています。

面白かったのは中国人が我妻殿をジロジロと見るのです。妻殿は赤いコート姿で別に日本では普通の格好なのですが、当時の桂林では超現代ファッションみたいに感じるようです。上の写真を見てもらえば大半の女性が無地のズボン姿ですからね。庶民が集まる市場に突然日本女性が赤いコートを着て自転車に乗って訪れたので、周囲の中国人はやっぱりジロジロ見ますよね。

この旅行は我妻殿の始めての中国旅行だったのですが、これ以降はあまり同行したいとは言わなくなりました。原因? トイレですね。
私は汚いトイレに慣れていましたが、女性にとってトイレは大問題らしくて、おかげでこれ以降の中国旅は殆ど私の一人旅になりました。
by takeshi_kanazaw | 2008-03-29 23:31 | 中国滞在記・旅行記 | Comments(0)
 昨年NHKで「中国3万キロ列車の旅」が放映されていました。旅行者の関口智弘さんのキャラクターがとても良かったですね。30年前のNHKシルクロードの旅に匹敵するグッドな番組でした。

 私の列車の旅は今を去ること19年前、1989年5月。ちょうどあの天安門事件(次回の2でコメントします)の年でした。私の列車の旅はとても関口さんのように3万キロは無理で、上海から南京―洛陽―西安―大同―北京という3千キロの列車の旅です。
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 この旅は日本旅行社の企画で、VIPの乗る列車を借り切って、15日かけてゆっくりと中国を列車で廻ろうという趣旨でした。南京や洛陽、西安などの主要都市にはその列車を駅に停車させ、旅行者はホテルに宿泊するという、まさに大名旅行みたいな旅行です。

代金は意外と安く、30万円台だったと記憶しています。トイレを気にしていた我が妻殿は同行を辞退。(そのためにこの旅行の写真が殆どありません。インターネットで拾った写真で補います)

 用意された列車は12両編成で、東ドイツ製の各車両は4~5室のコンパートメント、一室4人用のベッドとシャワー付という豪華なものでした。各車両には男女一名ずつの服務員が付き、食堂車は2両。おそらく、共産党か軍部の幹部が乗る特別仕様の列車なんでしょうね。

昨年チベットの天空列車の1等室に乗りましたが、設備は古いですが断然3千キロの旅の列車のほうが立派。イメージとしてはヨーロッパのオリエンタル急行列車の雰囲気に近いですね。

ところがこのツアーは120人のお客を予定してところ、全国から集まった参加者はなんと24人ポッキリ。本来このツアーは中止されるべきものだったらしいのですが、中国側は約束どおりの陣容を整えたので中止を出来なかったという、摩訶不思議なツアーだったのです。この後、私の知る限り同じようなツアーは二度と企画されなかったようで、まさに一回だけ行われた幻のツアーでした。

 この列車は客車だけで12両、それに乗務員や料理人の車両がつくので、長い中国のプラットホームの端まで続く長さを誇るのです。その長い列車に乗る乗客僅か24人ですから、全員でも駅の片隅にチョビットしかいないというまさに滑稽な状況でした。下の写真は列車の前での記念写真です。
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そういった事情で、旅行者の私達は一つのコンパートメントを一人で占有するという幸運?に恵まれ、私なぞは自分の部屋ではステテコ姿で一日中、本を読んで過ごし日もありました。

 多分特別列車なので特急並みに走ると予想したのですが、逆に鈍行より遅くて一般の列車の合間を縫って走りました。田舎の駅にも長く停まっている状態が多く、田舎の人がどんなVIPが乗っているのだろうと、よく車内を覗き込むのです。そこにステテコ姿の私が本を読んでいるという、なんとも言いがたい状況が生まれてしまいました。日本人の恥?だったですね・・。

 列車は南京にも停まったと思いますが、既に南京は訪問していたのでその時は印象が薄かったせいか、まったく記憶にありません。多分3年前と同じような観光をしたのでしょう。ホテルは金稜(南京の古い呼び名)飯店という南京では一番凄いホテルだったと思います。土産品の値段が凄く高かった印象があります。変なことばかり覚えていますね・・・。

 洛陽からは初めて訪れる町ばかりでしたから、ポツリポツリと印象が残っています。
洛陽は長安から都が移された古都ですよね。唐の時代以後の都はこの洛陽ですから、随分と立派な古跡がある綺麗な町と予想していたのですが・・・・・
下の写真は当時の洛陽駅に降り立った時と洛陽駅の周囲の状況です。
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 写真の雰囲気でお解りの様に、洛陽は中国の何処にでもある田舎町でした。それでも遺跡の中では中国3大石窟の一つである龍門石窟はマーマーでしたね。
 
 川の名前は忘れましたが、龍門石窟は綺麗な川の岸辺の岸壁にありました。敦煌の莫高窟のような規模はありません。仏像も6~7世紀頃のものが中心で、莫高窟のように長い年月の仏像が並んでいるわけではありません。しかし、石窟としてはまずまずの内容でしたね。
インターネットで拾った写真を下に載せておきます。
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 この写真では判りませんが、周囲の仏像は顔が切られているものあって、この地方までイスラムの影響が及んだ時期があったのかなーと思いました。

 次回は西安―大同―北京の思い出を書きます。
by takeshi_kanazaw | 2008-03-29 20:26 | 中国滞在記・旅行記 | Comments(0)
 列車の旅は上海―南京―洛陽を経て、古の都西安に到着しました。
西安は中国では好きな町のひとつですね。城壁があって、いろんな遺跡があって、そして何処か田舎っぽくて・・・。
 西安については、既にシルクロードの旅の起点ということで紹介しましたが、一番ゆっくりと西安を見たのはこの列車の旅の時ですね。

「5.4運動ってなんだい?」
中国人ガイドが説明に口ごもっています。
「昔学生が中心となった日本排斥運動だよ。5月4日に運動が勃発したんだ」
 と教養のあるツアーメンバー。
「それじゃ、明日がその記念日になるの?」
「今学生が民主化を要求して運動中だから、チョット危ないかも」

ちょうど5月4日前後に西安に居たものですから、5・4運動の記念日でもあり、その一ヵ月後にあの天安門事件が起きるザワザワした時期でした。多分5月4日には西安市内でも学生デモが行われたかもしれません。
 下の写真は5月4日の北京のデモの様子です。(インターネットから)
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 そこで5月4日は兵馬俑などの郊外の見学とし、翌日は西安市内の見物に計画を変更してトラブルを避けましたが、我々観光客は極楽トンボというか、まったく無頓着でしたね。

 夕方などは市内の路地をうろついて、夜店をひやかしていました。
「焼き芋があるよ。いっぺん喰ってみようよ」
 こんなことを言い出すのは何時もおっちょこちょいの私。
 まだその当時外国人は兌換券でしたから、お金(兌換券)を出しても焼き芋やのおばちゃんは変な顔をする始末。西安は田舎だったんだねー。

 下の写真は、私が調達した焼き芋を、西安の路上に腰掛けて皆で食べているところです。民主化の嵐が起きようとしている5月4日に、我々は西安で焼き芋を食っていたんですよ。でも焼き芋は結構美味しかったですよ。
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 西安では焼き芋ばかり食べていたわけではなく、2日ぐらい掛けて観光地を巡りましたよ。そして立派なホテルのデナーショウで美味いものを食って、大きなベッドで寝させてもらいました。遠くで中国人がカラオケで「昴」を歌っているのを子守唄にして。列車の旅ではホテルでの宿泊は貴重な時間ですからね。

 西安から大同への旅は、車窓から黄土高原を見ながらの旅でした。
 そして、確か列車で黄河を渡ったと記憶しています。同行した隣室の人がカメラ好きで、どうしても鉄橋を渡るときの黄河の写真が撮りたい。しかも列車を入れたアングルで撮りたいというのです。
 彼は列車のデッキから身を乗り出して撮ろうとするので、しょうがないから私が彼の身体を支えてあげた覚えがあります。写真を撮る人はどうも変な人が多いと思いましたね??

 黄土高原で人家が見え出すと、必ず山際に「ヤオトン」が並んでいます。
 ヤオトンは山際の崖をくりぬいた家屋です。外観はみすぼらしいように見えますが、土の中ですから冷暖房完備みたいないい環境だそうです。周囲に木も石もないのですから、上手いこと考えたなーと思いましたね。この地方ではこのヤオトンで数百万人の人が生活しているそうです。
 インターネットで拾ったヤオトンの写真を載せます。
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 この列車の旅では中国人のスルーガイドが2名つきました。両方とも王さんという女性。一人は日本で生活したことがある30前の日本語が堪能な女性。酒が強くて、冗談も上手くて、中国の一人っ子政策と避妊の実態について説明するぐらいのチョット変わったガイド。もう一人は50前のオバチャン。日本語はまったくダメ。

 私は若い王さんを「小王(シャオワン)」。オバサンを「老王(ラオワン)」と呼んでいました。
 中国では相手にどう声を掛けたらいいのか、名前をどう呼めばいいのか迷いますね。普通は王先生(ワンシェンシオン)でいいのですが、慣れてくると友達や若い人には「小」を、年上や目上の人には「老」をつけるようです。
 参考までに日本語の先生に当たるのは「老師(ラオシ)」です。

 列車の旅では時間を持て余すし、老王には誰も話しかけないので少し気の毒になりました。そこで例の如く私の筆談が始まります。
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 話しこんでみると? 彼女の息子が日本に滞在中でした。そこで、彼女はいろんな質問をしてきましたが、いくら筆談でも私では無理。しかし、子供を気遣う母親の気持ちは伝わってきますよね。私はこの老王が好きになって、それ以降は旅の中で結構話をすることになりました。

 小王の方は列車の中では常にラジオを聴き続けていました。
「今、首相と学生の代表が話し合っているのよ」
「何の話し合い?」
「民主化を受け入れるかどうか。首相の趙紫陽は理解があるんだけど、古い幹部がどうもねー。・・・」
「ふーん。・・・」

 その当時私は事態の深刻さは判りませんでした。
 感じでは一般大衆は学生の方にエールを送っているようでした。急に消費者物価は上がるし、役人の汚職はひどいし、なんとかして欲しいという感じがありましたね。

 この列車の旅は、大同を経由して騒然とした北京に向かうことになります。
 北京の話は次にします。
by takeshi_kanazaw | 2008-03-29 19:33 | 中国滞在記・旅行記 | Comments(2)

海外や国内の適当に撮った写真の記録


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