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 蘇我・物部戦争

 今日は日本の古代史のお話。

 昨年から 「古代の王権と中央豪族」という市民講座を聞いています。
 昨日は第4回目、テーマは西暦578年に起った 「蘇我氏と物部氏との戦い」
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 昔学校で、この戦いは、” 仏教導入の蘇我氏と、仏教排斥の物部氏との戦い ” と習いました。
 皆さんも学校でそう教えられたのではありませんか?
 なぜなら 日本書紀 にそう書かれているからですが・・・。

 この講座の講師の経歴はよく知らないのですが、日本書紀は勝者が後に書いたもので、必ずしも史実を述べているとは限らない という立場を取っています。 私もそう思います・・。

 この日の話の結論は
 「この戦いは豪族集団のトップの蘇我氏(大臣)が、軍事官僚トップの物部氏(大連)を滅ぼした戦い。まさに政権内の勢力争いで、仏教に関しては日本書紀を書いた仏僧などが後でこじつけたものだ」
 「後に聖徳太子伝説など、仏教思想が盛んとなり、史実とはかけ離れた概念が広がって固定してしまった」

 講義では蘇我氏と物部氏との戦いの詳細まで話が展開します。
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 物部氏の本拠の石上神社(いそのかみじんじゃ)や大阪河内の戦いや、討伐軍の指示を出したのは後の推古天皇(当時は天皇死亡時の皇后で、蘇我氏系)など、極めて細部まで検討されています。 なかなか面白い。


 前にこのブログ日本古代史のロマンを求めて?  で述べたように、日本の古代史は必ずしも史実を述べているわけではありません。
 その原因は 日本の最古の歴史書 「日本書紀」や「古事記」に頼り過ぎる点にあります。

 日本書紀が完成したのは西暦720年(奈良時代初期)で、当時の政権が過去の歴史を書いたわけだから、都合のいいように編集する可能性は大。、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという極めて政治的な色彩の濃厚なものと推測されます。

 歴史に興味のない方にはなんとも退屈な話ですが、似たような話は現代でも起こりうる。
 国家が庶民に実際と違う概念を植え付け続けると、それが歴史事実に変化し、庶民はその概念を信じてしまう。 戦前の教育がそうであったように、何時も起こりうる可能性があります。

 まー、歴史観というのは人それぞれで、何が史実なのかはよく判りません。

 疑い深い私などは、学校で習った歴史を信じないで、古代の日本は南方や大陸からいろんな人が来て、東アジアの合衆国みたいなものだ なんて勝手な思いこみをしています。 古代人が中国語をスラスラと書けること事態、オカシイじゃないか・・・。

 この講座はまだ続きます。 基本は日本書紀の記述の真偽検討を中心にするテーマのようです。
 私の思い込みとは程遠いですが、違う考えの意見も聞いておかないと・・・。
by takeshi_kanazaw | 2018-01-11 11:19 | まほろば紀行 | Comments(6)
 突然ですが、最近 「古代の王権と中央豪族」というテーマの市民講座を聞いています。
 この講座は月一回で6回シリーズ。日本史の飛鳥時代前期あたりの蘇我氏の頃の話ですが、なかなか面白い。もう3回目に差し掛かっていますが、ちょっとその話を。

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 話の主題は、――蘇我氏は昔からの豪族である葛城氏(明日香の西にある山付近に存在)の流れをくむ豪族で、この時代の日本の政治は蘇我氏の専横ではなく地元豪族の合議制だった。――
 教科書で習ったこととは違う観点ですね・・・。

 日本の古代史なんていうと、卑弥呼と邪馬台国の話から、突然日本書紀の話が不連続に出てきて、さっぱり判らないことが多いですね。 判らないことが多いので、各自が勝手に想像を逞しくして諸説が語られ、そこにロマンがあるのかもしれませんね。

 ところで、このブログには「まほろば紀行」というカテゴリがあります。生意気にも私も古代史に興味を持って、明日香をぶらついたり、山の辺の道を歩いたり、葛城街道や古代の竹内街道を河内までを走って、古代史の現場探訪をしたことがありました。詳しくはカテゴリ「まほろば紀行」をご覧ください。

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 そうそう、“ まほろば ” という言葉の発祥は、景行天皇(12代)の息子である日本武尊(ヤマトタケル)の望郷のうたとされています。彼の実存自体が不明ですが・・・。
「倭(やまと)は 国の まほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし」


 さて、日本の古代史の研究の主流は、もっぱら「日本書紀」と「古事記」の研究です。両書は8世紀の奈良時代に完成したもので、日本国成立の頃より数百年も後で書かれたものです。神話から始まって、何が事実で、何が脚色か、研究者によってマチマチの説が出ます。残念ながら、他に有力な文献がないので、極端に両書に頼ることになっています。

 「おかしいやんか、歴史なんて勝者が後で上手いこと書くことが多い。もういい加減に日本書紀一点張りを止めて、人類学や経済学、地理学など、違う視点で古代史を研究してもいいだろうに」
 生意気にも私はそう思っています。

 私は日本のボスとなった天孫族やその他の豪族達の多くは、大陸から来た渡来人だと思っています。(異論のある方は多いと思いますが。) なぜなら、日本列島の土着人が、すぐに漢字(中国語)を書きこなせるのはおかしい? さらに稲作の普及に欠かせない農業土木や、重要な鉄器、そして意外に進んでいる大陸との交流。大陸出身者なら可能だと思います。いわゆる騎馬民族征服説なのですが、この説は古代史研究の傍流のようです。

 「しかし、素人が自説にこだわってばかりいてはいけない。ちゃんと古代史の主流の話も聞かなくちゃだめだ」 天邪鬼の私ですが、ここは我慢して?日本書紀ドップリの学者さんの話をジックリと聞いてみようと思い立ったという次第。

 講座の中身を紹介するのが筋でしょうが、ブログという媒体では無理でしょうね・・・。
 まー、私自身の記録保管という意味で、少しその さわり を載せておきます。

「基礎を築いたワカタケルノミコト(雄略天皇)」
 雄略天皇(21代天皇とされる人)が、5世紀ごろに葛城氏などの豪族を滅ぼし、王族の血なまぐさい抗争を経て天皇家の基礎を築いたらしい。この時代以降の話が史実に近い?
(天皇という尊称は後世に使われたもの。当時は全く異なる呼び名のようです)
 じゃー、それまでの史実はどうなのか。三輪王朝は存在したかなどなど、疑問が出てきますね。

「昔の国際港は和歌山?」
 古代大和朝廷の大陸との交流は、難波(現大阪)とされていますが、それは6世紀後半からで、5~6世紀の頃は葛城山から南へ下った葛城道、巨勢(こせ)道、から紀ノ川を下り、現在の和歌山から大陸に出て行ったという。滅ぼされたとされる葛城氏・巨勢氏の流れをくむ力(蘇我氏など)が強かったらしい。必ずしも天皇家中心ではなかった?

「大連と大臣」
 大連というのと、物部氏と大伴氏が浮かびますが、連(むらじ)というのは天皇に属する 官僚 のようなもので、それぞれ特別の武力とか財政などの仕事を担当する職を言うらしい。それに比較して臣(おみ)というのは、過去は天皇と同等の豪族達の主力氏族を指すという。なお、臣となれる豪族は20以上あって、10人ぐらいが選ばれて閣僚?を構成。そのトップが大臣で蘇我氏が独占したらしいが、基本は臣達の合議制だったらしい。

「面白いのは天皇の婚儀」
自分の部下である連の娘は皇后には迎えず、蘇我氏を始めとする臣の娘を迎える。過去にも葛城氏と天皇家の婚儀が多かったらしく、なんとなく判るような気がしますね。そのことが政治面にも影響が出てくる。
 大連中心の政治は天皇中心の組織かもしれない。それが臣の合議制に移行し始め、物部氏と蘇我氏の抗争というのは、有力官僚と大物大臣との戦いだった? 


 まー、退屈な話と思われる方、面白いと感じる方、いろいろでしょうか・・・。
 この講座は後3回あります。 
by takeshi_kanazaw | 2017-12-15 08:16 | まほろば紀行 | Comments(2)
 「飛鳥の巨大古墳の謎に迫る」という講義に参加しています。

 講義が終わってから、講師の三重大学小澤教授に聞いてみました。
 「巨大古墳を作るのに、どのくらいの人工が要るんでしょうか」
 
 先生は直ぐに手元のPCを見て、参考資料を提示してくださった。
 「大林組が仁徳天皇陵の造営費用を試算しています。それから、大化の改新後、大化薄葬令というのが出ていますよ」

 面白! さっそくインターネット検索で調べました。

 ご存知の仁徳天皇陵。ちなみに天皇という言葉は8世紀頃から使われ、古墳時代には天皇は存在しません。正式名は大仙古墳です。
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 (インターネットから検索図。)
 この仁徳天皇陵とされるモノは日本最大古墳ですが、大林組が1985年にその造営に係る労働力や日数を試算している。 幾つかの前提条件があるが、結論は以下の結果です。

 総作業員数:延680.7万人 (一日平均1500人前後か)
 造営期間 : 15年8ヶ月(並行工程があるため上記合計より短い)
 総工費:796億円(1985年当時の貨幣価値、現在では4000億円ぐらい?)

 「凄いな・・・。 一大プロジェクトやな・・・・」
 揉めているオリンピックの国立競技場より、もっと大きなプロジェクトですね。

 天皇陵や豪族の墓は仁徳天皇陵だけじゃないですね。大阪の河内地方には一杯あるし、奈良盆地にも一杯ありますね。
 「古代の人は墓ばっかり作らされていたのかしら・・・」

 三輪王朝ー古墳時代ー飛鳥時代と300年以上の期間がありますが、その間の日本の人口はおおよそ300万人~500万人ぐらいとされています。 河内や奈良付近の人口は、どう見ても50万人前後しかなく、農作業や日々の暮らしの他にいろんな作業があり、墓を作る余裕はそんなになかったのではないでしょうかね。

 「単に墓を作るというだけでは、物理的にも、経済的にも説明できないのではなかろうか・・」私はそう思うのですがね・・・・。

 もう一つ先生に紹介された資料の大化薄葬令。大化の改新の後、あまりに墓に労力をかけないように、天皇陵でも7日以下で作れと言っています。確かにそれ以降の墓は極端に小さくなって、巨大古墳の時代は終了します。

 日本の歴史学、考古学は、どちらかというと文系の先生方が中心ですが、どうも日本書紀・古事記に引っ張られて過ぎている感じがします。むしろ大林組の分析のように、専門外の分野からの視点の方に迫力を感じますね。

 遺伝子情報分析技術の発達で、日本人の起源は何処にあるかという分野も注目されます。さらに経済学の分析が進めば、古代人の日常生活がもっとよく判るかもしれません。 そのほか宗教学、心理学、など、古代人の人生観などの分析も面白い。
 でも、なぜか日本では古代史の研究はダイナミックじゃないですね・・・。

 世界の王国の起源は、神話と別に現実的な事実の分析が明らかな場合が多い。イギリスもそうですし、モロッコ、タイなど、王国の起源ははっきりしています。
 日本の場合は、古代史分析に必要な天皇陵の内部調査は、宮内庁からのお達しで禁止です。憲法でも天皇は国民の象徴ですからね・・・・。

 このブログの「まほろば紀行」は、まだ続ける予定です。
 気が向いたら、また飛鳥へでもプラリと行ってこようかな~・・・・・。
by takeshi_kanazaw | 2015-08-12 12:37 | まほろば紀行 | Comments(0)
 このブログでは 「まほろば紀行」 というカテゴリーを作っています。
 日本の古代史にロマンを馳せているのですが、現地を訪れて何時も自分勝手な推測に喜びを感じています。

 「あんまり独りよがりばかりもイケないだろうな~、たまには専門家の意見を素直に聞いてみようかな」ということで、文化センターの歴史講座を受けています。
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 講座のテーマは「飛鳥の巨大遺跡の謎に迫る」 講師は三重大学の小澤教授です。
 この方は、大学の教授になられる前は、実際に古墳発掘のお仕事をされていた。

 さて、飛鳥の地では彼方此方に古墳とおぼしき遺跡が散在します。最近では甘樫丘の南に小山田遺跡なるものが発掘され、マスコミにも大々的に取り上げられました。 その時に必ず問題となるのが、埋葬者はいったい誰なのか? という問題です。

 私はこうした議論には無頓着。
 「巨大古墳は湿地開墾のモニュメントだ。湿地から取った泥を積み上げたのが古墳と云われるもので、埋葬者は開墾事業のボスだ」なんて言っています。
 勿論こんな私の推論は誰も取り上げません。

 せっかく講座を受けているのですから、素直に先生のご講義を聞かなくては。

 先生の説明によると、飛鳥の巨大古墳を見る時は、その場所に注目すべしと云われます。ポイントは、飛鳥では蘇我氏の勢力範囲と、非蘇我系の天皇家の勢力範囲がクッキリ別れていてことです。甘樫丘の南を境に、北は蘇我氏の範囲、南は天皇家だそうです。

 ご存知のように天皇家と蘇我氏は姻戚関係が深くて、どの天皇が蘇我系で、誰が非蘇我系なのかを見極める必要がありますが、講座では天皇の系図を見ながらの講義となっています。

 この小澤先生の見解は、学会の通説になっているか私には不明です。しかし、古代人だって自分の家の墓を作る時、自分の家や田圃がある近くの場所を選びますよね。喧嘩相手の勢力範囲に、わざわざ親の墓は作りませんよね。

 小澤先生によると、小山田遺跡は甘樫丘に近く、蘇我氏の勢力範囲にあることから、蘇我氏の墓ではないか という見解でした。こうした場所に注目する視点は面白くて、蘇我氏の墓とされる「石舞台」の近くに、蘇我氏の別荘みたいなものが多くあるとか、さすがに専門家の詳しい分析らしくて面白い。

 中身を紹介するとキリがありませんが、なるほどと思える点が多くて、次の講義にも出かけようかなと思っています。

 「でもな~・・・。なんでこんな大きな墓とおぼしきものを作るんやろ・・」
 先生の講義を聞いていても、そんな疑問は解決しません。

 古代史の専門家はすぐに日本書紀や古事記を持ち出して、天皇家や蘇我氏などの豪族の話ばかりに熱が入ってきます。
 「日本書紀や古事記は、闘争に勝った勝者が、自分の地位を確実にするために、過去の出来事を勝手に書いたもんや。歴史書と云えるんかいな・・」 私はそう思っています。神話の世界なんて絵空事でしょうが、何かが隠されている可能性はありますね。

 講義を受けながら、どうしても頭をよぎる疑問があります。
 「天皇陵なるものや豪族の墓を作らされた庶民は、実際はどう考えていたんやろか」
 やっぱり私はへそ曲がり?

 少し話が長くなってきました。次回にしましょうか。
by takeshi_kanazaw | 2015-08-11 06:48 | まほろば紀行 | Comments(8)
 この山の辺の道のウオーキングも、最終目的地の三輪山にたどり着きました。

 「あ~あ、疲れたな・・・・」 出発地の天理から、延々と13キロは歩いたでしょうか。
 三輪山の中に入っていく感じです。
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 まるで熊野古道や木曽路の山の中みたいですが、周囲は大きな木が一杯です。

 彼方此方に小さな社が散在します。 
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 これは貴船神社という、水の神様なんだそうです。京都の貴船も水と関係がある?

 実は今回歩いているのは、三輪山の裏側から正面を目指している感じなのです。
 この三輪山は、山そのものが神体で、大神神社(おおかみじんじゃ) と呼ばれているのです。
 ですから、社にご神体なるものは存在しません。 そして、周囲にはこの貴船神社のような、小さな社が一杯あるのです。

 ドンドンと進むと、なんとなく神社っぽくなってきました。
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 「帰りの電車の時間はどうなってるかな・・・・」
 もうこのころは、名古屋に帰る時間ばかり気になっていました。

 やっとたどり着きましたね、大神神社の大きな社。
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 以前にも、まほろば紀行で車で此処に立ち寄っています。
 「それにしても、なんでこの三輪にこんな大きな社が・・・・」

 話が少し込み入りますが、ここでまほろば紀行の何時もの歴史の話。
 日本は戦前に 万世一系天皇を戴く国 と国民への刷り込みが行われ、現在でもこの種の議論に抵抗感があります。

 「古事記・日本書紀の神話の話はまだしも、歴史の記述に入るとつじつまが合わないことが多すぎる。フィクションが一杯入ってるのじゃないか」 と戦後に王権交代説が叫ばれるように。

 そうした議論の中で、西から来た天孫族が大和に築いた初めての王権は、三輪山を中心に天理辺りまでを勢力圏とする 三輪王朝 だった、 という説が有力です。 その初代の王(天皇)が崇神天皇というわけです。

 この王権交代説は、三輪王朝ー河内王朝ー継体王朝へと交代するというものですが、私はこの説に魅了を感じています。 その後、飛鳥時代ー奈良時代となっていく。

 「そうか、天孫族などの大陸からの外来人が入り始めてから、奈良の大仏さんが出来るまで約500年近くの時間が流れていたのか・・・・・・・」
 コロンブスがアメリカ大陸にたどり着いてから、現在までの500年余とほぼ同じ年月ですね。

 国のまほろば、なんて長閑なウオーキングをしていますが、このまほろばの時代は、人種が入り交り、王権争奪戦が行われ、一方では稲作が広まり、生活のシステムや政治のやり方が変化する、激動の時代 だったのかもしれません。 その変化は、明治維新の変化の数倍の変化だったかも。

 大神神社の正面にやってきました。
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 ビックリしたのは、神社に参拝した殆どの人が、この鳥居を出るときに三輪山に向かって深々と礼をしていました。

 この三輪の近くには日本最古の市場とか、面白そうな場所があるのですが、近代化の波の中に埋没してる感じで、古代のロマンを探すのはシンドイ。

 「もう帰ろう・・・・・」 
 JRの三輪駅から、三輪山をしみじみと。
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 このまほろば紀行、書きたいことの数分の一しか書ききれません。
 現在、古事記と日本書紀を読んでいます。(原資料はすべて漢字なので、口語体の訳本ですが、それでも相当読みづらい)

 日本の古代史を訪ねる まほろば紀行。
 また気が向いたら、どこか出かけましょう。 その時までこの話題は休憩です。
by takeshi_kanazaw | 2014-05-24 12:27 | まほろば紀行 | Comments(4)
 三輪山が近くなってきました。

 なんとなく周囲が聖地?らしくなってきた。
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 大きな檜でしょうか、うっそうと茂っています。

 何やら社みたいなものが見えてきました。
 山の辺の道のマップによれば、桧原神社があるはず・・・。
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 「そもそも桧原神社って何なの?」
 なんとなく古代の社という感じですが・・・。
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 何気なく立札を見ると・・・
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 よく読むと、実に変な?ことが書いてある。 興味津々ですね。

 まず第一は 崇神天皇の時、それまで宮中で祀っていた天照大神をこの地に移したとしている。
 天照大神は天孫族の始祖とされる神様ですが、それをなぜ外に出したのか。

 日本書紀ではその理由が簡単に述べられているようですが、宮中に他の神様と一緒に祭っていると、どうもよくない・・・という感じなのです。 始祖の神様を外にということは、宮中の権力争いや家庭騒動が起こって、そのためにやったことではないでしょうかね・・・。 何かありますね・・・。

 第二はなぜ伊勢の地が最終地になったのか?
 天照大神を祭る社は、彼方此方を移動して、最終的に伊勢の地に。
 我々は伊勢神宮と呼んでいますが、本当は「神宮」が正式名。 伊勢にあるから伊勢神宮と呼ばれるようになったに過ぎないらしい。

 さてさて、どうして伊勢の地が最終的に安住の地になったのでしょうか?
 これについては、歴史は多くを語っていません。(私の知る限りですが)
 なぜ、大和政権の始祖とされる天照大神が伊勢に祭られているのでしょう?

 桧原神社は何も語っていませんね・・・。
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 加えて、名古屋には熱田神宮、関東では鹿島神宮、九州大分には宇佐神宮・・・。全国に多くの神宮がありますね。祭ってある神様はどうなのでしょう、多くは古事記や日本書紀に登場する神様達ですね。

 「どうも地方豪族と妥協、征服して、その地に在った神様達を天孫系の神様に統一したんじゃないかな・・・」
 私はそう勘ぐっている?のです。 各地の神宮があまりにも感じがよく似てる。

 しかし、ホントにどうして伊勢の地に伊勢神宮なるものが出現したんでしょうかね・・・・・。
 案外偶然? それとも必然? 判りませんね・・・・。
by takeshi_kanazaw | 2014-05-23 14:43 | まほろば紀行 | Comments(4)
 山の辺の道も中間点を超えたところに、やけにデカい古墳に。

 「うーん、これはデカいや。 全体像が全然判らないぐらいデカい」
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 大きな堀をぐるりと回ってくると、どうもこれが 崇神天皇(すじん)の古墳らしい。
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 この古墳は 行燈山古墳 と呼ばれていましたが、宮内庁がこれが 崇神天皇陵だ! と定めたそうですが、実際はよく判りません。

 そもそも崇神天皇は10代目の天皇とされて、実存の可能性がある天皇らしいのですが、その存在が確実視されているわけではない。

 少し頭が痛くなる方もいるかもしれませんが、まほろば紀行では避けて通れない、天皇の歴史の話を少し載せないとなりません。

 天皇は123代続いているとされていますが、実存が確実視されているのは26代の継体天皇(けいたい AC 507年~531年)以降らしく、それより前の天皇は存在が確認できないらしい。 この継体天皇自身も北陸からやってきた人で、長らく難波の宮に留まった摩訶不思議な経緯が記録されている。

 「10代目の崇神天皇はどうなってんだ? それなら崇神天皇陵なんてオカシイやないか!」
 まーまー、そう怒らないで。 日本の古代史なんてそんなもんなんです。(素人意見ですが)

 この崇神天皇が実存の可能性があるされるのは、どうも天孫族がこの三輪の地に 三輪王朝 と呼ばれる初代の王朝を作ったらしく、その初代が崇神天皇の公算があるらしい。
 こんな話を続けると、キリがないので・・・・・・。 またの機会に。

 近くの看板に航空写真が載せてありました。
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 周囲の人家と比べると、異様なまでに?大きいですね。

 以前にこのまほろば紀行で載せたのですが、大きな天皇陵を見てどこかピンとこない。
 私は 「前方後円墳は天皇の墓じゃなくて、土地改良事業のモニュメントだ」 と主張。
 
 また変なことを云って・・・とか、このブログの愛読者は、また始まった・・・・と思われる?

 大きな古墳が造られた古墳時代、日本の人口は100万人前後。 恐らく大和盆地周辺でも10万人前後だったのではと推定しています。 単に王様の墓を作るのに、百姓が大勢駆り出されたとすると、とてもじゃないが生きていけない。

 ところが、水はけの悪いところに水田を作り(土地改良)、その事業に参加すれば水田の耕作が認められるとなれば話が違う。 天皇陵と言われる小山は、その改良事業の掘り起こした泥地の土を盛ったもので、改良事業のボスの天皇?の遺品もついでに埋めたのかも。

 エジプトのピラミッドは、ナイル川反乱時期の農民への失対事業だという説もあったりします。日本の天皇陵も実は古代の水田開発事業のモニュメントだったりして。
 天皇陵一つでも、古代の勝手なロマンが広がりますね・・・・。

 崇神天皇陵の近くに、景行天皇陵と言われるものがあります。
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 これもまたデカい。

 景行天皇は日本武尊の父親ということになっていますね。実存するかは判りません。
 この古墳は国道からも近く、周囲を廻れますが、歩くのがしんどくなって・・・。
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 ちなみに 望郷のまほろばの歌を歌った日本武尊は三重県北部で亡くなるのですが、白鳥になって飛んで行ったという説話があり、各地に白鳥伝説が生まれます。 
 日本武尊の古墳? 聞きませんね・・・

 だいぶ南に歩いてきました。 見渡すと大和三山が見えてきました。
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 昨年はこのまほろば紀行で 天香久山 に登りましたね。

 「さー、そろそろ、三輪山が近くなってくるはずだ」
 でも全体像は全然見えません。 ひたすら農家の道を歩き続けます。
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by takeshi_kanazaw | 2014-05-22 15:37 | まほろば紀行 | Comments(2)
 山の辺の道を石上神宮から三輪まで歩いています。

 この道は現在 東海自然歩道 になっています。
 「なんや部落みたいなところに入ってきたな・・・」
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 「それにしてもいい天気やな・・・」 ジャンパーを脱ぎ、シャツのボタンも外して・・・。

 手元に山の辺の道のマップを持って、道標を見ながら・・・
 「フムフム、竹之内環濠集落? 何処にあるの?」
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 奈良という地域は昔からお寺の勢力が強くて、大和は殆どが興福寺領などのお寺の領地?だったとか。ですから、奈良からは大きな戦国武将は出てこなくて、勢い農民はこの環濠集落のように、自衛の掘りを作って身を守るパターンに。

 ドンドンと前へ歩いて行かないと、まだ半分も来ていません。
 「ノンビリした眺めやな・・・」
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 向こうに見える山は、葛城山系でしょうか・・・。そうそう、このまほろば紀行で、葛城古道も走りましたね。

 なんとなく周囲の雰囲気が変化してきました。 
 畑の彼方此方にこんもりした森が目立つようになってきました。

 何やら立札が見えました。
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 「大和古墳群? なんだ俺は古墳に囲まれて歩いているのか・・・」

 しかし、しかし、立札がないことには、決して古墳だとは判りません。
 「これが古墳なの?」
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 古墳の上に家も建っているし、みかん畑もあります。 横の立札には「西山塚古墳」 と書いてありました。

 「せっかく山の辺の道を歩いているのだから、古墳を見なくくちゃ・・・。」
 彼方此方目を凝らして、古墳を探して・・・・。

 「スミマセン、マップでは近くに衾田陵とかいう古墳があるのですが・・・」
 ちょうど郵便屋さんが来たので聞きました。
 「この辺は古墳だらけやから、古墳の名前なんか知らんで。 ちょっと行ったところに森みたいなのがあるけどな・・・。その古墳かどうか知らんけどな・・・」

 田んぼのあぜ道を歩いて、その森の近くまでノコノコと。
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 「立札もないし・・・。これが衾田陵かいな・・・・」

 また触れることになるかもしれませんが、古墳というのは誰が埋めてあるのか判らないケースが多いのです。 はっきりしないうちに宮内庁が勝手に決めてしまったケースもあるらしい。

 「フムフム、これは柿本人麻呂の歌の碑か・・・」
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 歌の意味? 判りません!
 他にも人麻呂の歌の碑が彼方此方に建てられています(現代になってから)。

 古墳銀座みたいな場所を歩いているのですが、立札がないことにはサッパリ。
 「今度は古墳に一杯お墓が建ってるぞ・・・」
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 これは燈籠山古墳というんだそうですが、後世に念仏寺というお寺の墓地にもなったとか。

 古墳というと大きな天皇陵が有名ですが、この一帯には一杯古墳があり、豪族などもこの地域に死者を埋葬していたようです。柿本人麻呂の歌では妻をこの辺に埋葬したとあるそうですから、掘り返せば何が出てくるか判りませんね・・・。
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 「そういえば、石上神宮の近くには古墳がなかったな・・・。 やっぱり神様のいる場所、皆が暮らす場所、死者を埋葬する場所は、それぞれ決まっていたのかも・・・」

 古墳の近くにこんなものが。
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 墓を世話する人がいなくなった墓石を積み上げているのですね・・・。

 「天皇や豪族の墓ばかり注目されるけど、まほろばの頃の庶民は死ぬと、どんな風に埋葬されたのかな・・・。 天皇陵の話ばかりで、庶民の墓の研究報告を目にしないな・・・。」
by takeshi_kanazaw | 2014-05-21 23:57 | まほろば紀行 | Comments(2)
 山の辺の道、石上神宮から南へ歩き始めます。

 振り返ってみると、石上神宮のこんもりとした森が見えています。
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 この池では数人が釣糸を垂れていました・・・・。

 この山の辺の道は恐らく3世紀ごろからあったと思われます。 現在に至るまで1700年近くの時間が流れているわけです。

 「そうだな・・・。 神宮や古墳などが、残っているほうが不思議と思わざるを得ないな・・・・」
 少し歩くと、道の両側に畑が一杯出てきます。
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 この山の辺の道は、現在では沢山の家がある平坦地から50m程度上にある、畑作地に適した丘陵地帯です。 1700年という時間の長さを考えれば、もっと開発されても当然のような気もしますね。

 「どうして開発されなかったのだろう・・・・」
 現在では恐らく何らかの規制があるのでしょうが、飛鳥時代、平安時代、鎌倉、室町・・・・、農民がここを農地化するのに戸惑う、 ” 何か ” があったのかも。 なんでしょうね・・・・。

 畑の中に突然こんな立札が。
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 辺りはすべて果物畑のような感じです。 立札の近くにこんな説明板が見つかりました。
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 皆さん 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく) をご存知でしょうか?
 明治維新の時、跳ね返りの志士たちが、日本は神道中心であるべきで、仏教など渡来の宗教など認めてはイケない と、お寺を潰してしまえ とわめいたのです。 当然キリスト教も禁止。 この永久寺という石上神宮の神宮寺も、廃仏毀釈で廃寺となったようです。

 司馬遼太郎の街道を行くの中で読んだ記憶がありますが、奈良の興福寺も廃仏毀釈で有名な五重塔が売りに出されたそうです。 薪にしようと思って買った人は、壊す費用が要るのでもうけにならず、買うのを止めたという話が。

 1700年の月日の流れには、いろんなことがあったのでしょうね。 遺跡とか神社・お寺など、古いものを残すかどうかは、その時代の人間がどうするかを決めているわけですね。

 現在は元のお寺の庭にあった池だけが残っている。
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 昔は何が在ったか判らない、現在は畑が広がる道を歩き続けます。
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 またこんもりした森のような場所に差し掛かります。
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 珍しく石畳の道ですね。これはこの道が昔から実際に使われていた証拠でしょうね。 雨でも降れば山土で道がぬかるんで、とても歩けなかったに違いない。

 森を越すとまた畑が広がります。
 「また何か出てきたぞ・・・・」 
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 「ひょっとしたら古墳じゃないか・・・・」 近くに看板は見当たりませんが・・・・。

 とにかくこの山の辺の道を歩いていると、現在は何もなくとも、古には何かがあったような雰囲気を感じてしまうものですね・・・。 実際に歩いていただくと判ると思いますが。

 今度はちゃんとした看板が、
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 「そうか、奈良時代の春日大社との関係か・・・・」
 奈良の春日大社と比べると貧弱ですが、お社がありました。
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 栄枯盛衰世の習いと言いますが、長い年月にはいろいろあったのでしょうね・・・・。
 恐らく歴史というのは、変化の必然性と偶然性がミックスしているのでしょうね。

 山の辺の道には、こんなにいろんな話が残っているということを考えると、結構大きな寺や神社が一杯並んでいたのかもしれませんね・・・・。

 「そろそろ足が痛くなってきた・・・・」
 まだ半分にもたどり着いていないのですが・・・・・。
by takeshi_kanazaw | 2014-05-20 13:23 | まほろば紀行 | Comments(4)
 山の辺の道は、北は春日山から南は三輪神社までを差すのですが、石上神宮はその中間点。現在ではこの石上神宮から三輪への南半分が、山の辺の道 として知られています。

 実はこの場所には、4年前にまほろば紀行を書き始めた頃に来ています。その時は車でポイントをサッサと廻ったのですが、何時かは自分の足で歩いてみよう と思っていました。

 さて、石上神宮ですが、こんもりとした杉の大木の中に在ります。
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 この山の辺の道の写真は、古代らしく?モノクロで撮っています。

 この石上神宮は、「いそのかみじんぐう」 と読むのだそうです。
 「なんで いそのかみ なんや? 磯上かもしれんな・・・」

 前回のブログに載せたように、昔は奈良盆地は湖だったので、この神宮はその湖の磯に建てられていたかもしれません。これは勝手な解釈ですが、いそのかみ と読むのは公式です。

 加えて伊勢神宮の古名は 磯の宮 だったそうです。 いそのかみ(石上神宮)といそのみや(伊勢神宮) ちょっと興味が惹かれますね。

 この付近一帯は布留(ふる)と呼ばれる昔からの集落があったらしい。
 布留の神杉 という言葉も出てくるぐらい、杉の大木があった場所で、現代でもその面影を感じることが出来る場所ですね。
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 こんな碑がありました。
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 後で調べて判ったのですが、同じく柿本人麻呂の歌の碑もあるそうですが、見逃しました。 飛鳥時代にもこの布留の里は、古くから云々 という言葉の枕詞風に使われていたらしい。

 この石上神社、注目すべき点が多くあります。
 第一は、日本書紀によれば、伊勢神宮とこの石上神宮が日本最古の神宮とされています。なぜなのかよくわかりませんが、平安時代に由緒ある神宮なので、皇居の一部を移設したという言い伝えも。

 現在は平安時代風な大きな社が建っています。
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 これはどう見てもまほろばの頃の建物ではありませんね・・・。しかし、国宝ですよ。

 第二は、この場所は古代の武器庫だったとされ、物部氏が管理していたという伝承が。 
 ホンマかいな? と、明治時代に掘ってみたら、本当に武器が埋まっていたらしい。

 特に4世紀頃、百済(朝鮮半島古代国家の一つ)から送られてきた七支刀(国宝)が出てきたので、伝承が嘘ではないこと、4世紀頃に百済と交流があったことが証明されることに。 4世紀、弥生時代後期から古墳時代前期ごろ、すでに百済と関係が深かったのですね・・・・。

 まー、こんな話を続けているとキリがないですが、もう一つ面白いことが。
 「出雲武雄神社? なんじゃこれ」
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 小さな社ですが、その前の立札を見ると・・・。
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 天武天皇(飛鳥時代)が、雲が出たから神社を建てた とありますが、雲なんて何処でも出ますよね。

 出雲というと、現代の島根県をイメージしますが、天孫族が大和朝廷を作り上げる前には、出雲族も大和の地に居たのではないかという説があります。 出雲族は地方豪族ではなくて、古くからの豪族だったかも。 そんなことから、古い石上神宮にわざわざ出雲の神様を・・・・。

 そうそう、大国主命 国譲りの神話をご存じですね。 
 出雲の話ですね・・・。 国譲りね・・・。 ちょっと神話じゃすまされない事柄が匂いますね。

 ところで、今日このブログの愛読者と会いましたが、字が沢山書いてあると、頭が痛くなるとか言われていましたが・・・・・。
 そろそろ、今日のお話も、写真でも載せて終わらないと、ますます頭が痛くなっているかも。

 石上神宮、苔が綺麗でした。
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 あまりに綺麗だったので、カラーで撮りました。

 「さー、それじゃ、山の辺の道 のウオーキングを始めようか・・・・」
 うっそうとした道を進んでいくことに。
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by takeshi_kanazaw | 2014-05-19 16:24 | まほろば紀行 | Comments(4)

海外や国内の適当に撮った写真の記録


by takeshi_kanazaw