毛越寺(もうつうじ)は中尊寺と並ぶ平泉の名所です。
平安時代の遺跡で、当時は平安様式の大きな伽藍があり、庭園内に池があったそうです。
しかし現在では、建物の基礎の石と池が残っているだけです。
この庭園はホントに池以外には何もないのです。
なぜこの場所に来たかというと、8百年前のイメージが残っているからなんですが・・・。
池のほとりに何やら碑が・・・
「夏草や 強者(つわもの)どもが 夢の跡」 芭蕉の句ですね。
この俳句は義経の住んだお堂のところで読んだとも言われてますが、私は平泉全体のイメージと捉えてもいいのじゃないか、特にこの毛越寺が俳句に一番フィットしてるような気がします。
遺跡は何も手をつけない方がいいと思うのですが・・・・
多分江戸時代のお堂ですね。
池のほとりでは「あやめ祭り」が・・・・
写真には撮らなかったのですが、少しづつ現代の手が入っています。
「何もしないのがいいんじゃないの。遺跡を維持するだけが・・・。夏草を生やしておけば・・・」
その日の泊まりは「衣川」 平泉と隣接する北上川と衣川が合流する場所。
写真の川が北上川。衣川は山裾を流れているのですが、上手く写っていません。
写真の小高い丘が多分中尊寺ですね。
「衣川の戦いって何なの?」
ホテルの喫茶店で地元の女性店員に聞いたのですが・・・・
「うーんと・・・えーと・・・」
東北の人は口が重い。どうやら標準語でどう喋ればいいか迷ってふしが見える。
我々が外人に英語で話しかけられた時の感じに似ていると思いましたね。
「資料があるから見てください」 と資料を探してくれました。
以下少しこの地域の歴史探訪です。
この北上川流域は千年も前から開けていたようで、住民はどうも蝦夷と言われていますが、日本古来の縄文人の流れを汲む人という説も。
奈良、平安を通じて、近畿から何回も攻められています。有名なのが源義家が攻めた「前九年の役」
当時衣川一体を牛耳っていたのが阿部一族。結局は前九年の役とそれに続く何度かの戦いで、阿部一族は滅びますが、その孫が奥州藤原氏の開祖。 長い戦いで死んだ多くの人を見て、仏教に深く帰依して中尊寺などの仏教施設を充実させたとか。
結局は義経をかくまったことで、奥州藤原氏は鎌倉勢に攻め滅ぼされるのですが、考えればこの戦いは縄文人と弥生人との最後の戦いだったかも知れませんね。
日本の歴史は弥生人が作った歴史で、縄文人側からの歴史があれば面白いかも・・・。
次の日はまた車を走らせて「三陸海岸へ」 結構忙しい。