1989年6月4日未明、北京の天安門で民主化要求のデモ参加者へ、中国軍戦車による発砲事件がありましたね。その様子はテレビで紹介され、多くの死者が出ました。
インターネットで拾った写真を紹介しますが、皆さんも記憶が戻るかも・・・。
この天安門事件については、中国政府は過去の出来事として”触れたくない、触れてほしくない”という態度ですが、20年目をむかえて香港などでは集会が行われたり、当時のトップで失脚した趙紫陽の回想録が出版されたりと対照的な状況が見られます。
このブログ(2008年4月中国列車3千キロの旅3)で書きましたが、ちょうど事件の1か月前のザワザワしている時、1989年5月上旬に天安門の観光をしていました。
「役人の汚職はどうにかならないかしら」
「インフレで物価は上がるのに給料は上がらないし、生活に困ってるわ」
巷の声はそんな雰囲気でした。
事件の1か月前はすでに学生のデモが発生していましたが、学生の代表と政府の部長との会談がテレビで放映されたり、虐殺事件を予感させる雰囲気は全くありませんでしたね。
「そうね、学生の言うことも判るわ。政府も学生の声に耳を傾けるでしょう・・・」
庶民からはデモの学生へのエールも聞こえる状況でしたね。
旅行から帰国した後も少し気になってはいたのですが、その後デモの規模は膨れ上がり、趙紫陽が直接学生を説得しようとしたが失敗。ついには軍隊の投入となりました。
「何でこうなるの!」
日本のテレビを見ながら、考えさられましたね・・・・・・。
「この天安門事件の根っこには”文化大革命の亡霊”があるんじゃないか・・・」
実は1986年、事件の3年前にも、2ヶ月間中国の工場を見て歩いたことがあります。
当時は開放政策で、計画経済から市場主義経済への大転換期。
万元戸(1年間に1万元稼ぐ農家)や郷鎮企業(民間小企業)がもてはやされていましたね。
しかし、しかし。多くの人は戸惑いの中にありました。
”調子に乗ると、またあの文化大革命みたいになるのが怖い!”
政府の言うことを信じて活動した文化大革命。その悲惨な状況はあまり語りたがりません。
言わない、言えない、言いたくない・・・。 それだけ凄いことだったらしい。
10年の混乱の中、数千万人が死亡とも言われ、多くの人が被害者であり、加害者。
あの天安門事件が起こったのは、文化大革命騒動が終焉してほぼ13年ぐらい経った時期。
政府のトップも胡耀邦(1989年4月死亡)と趙紫陽という民主化に理解ある人達。
天安門に多くの学生が押し寄せた時、民主化路線の人は対話による解決を目指したが、院政を敷いていた実質のトップの鄧小平はそうは思わなかったんでしょうね。
”絶対に再び文化大革命のような混乱は起こしてはならない!”
デモ鎮圧を絶対優先して軍隊を動員したのは、どうも彼ではないかと・・・。
鄧小平は文化大革命の被害者でもあり、”文化大革命の亡霊”を恐れたんでは・・・。
混乱が長引くと、また10年の混乱した暗黒時代がくる。
デモを鎮圧された人たちも、これ以上政府に立ち向かうと文化大革命当時のように危険だ。
民衆も、”文化大革命の亡霊”を感じたのでは・・・・。
国の政治と自分自身の生命の安全が直接関係している状況。多くの無秩序な混乱。
中国の人たちは、我々には想像できない状況を経験してきた・・・・。
中国政府は文化大革命について、天安門事件以上に触れたくない、触れてほしくないのでは。
「10億人以上の国を治めるのは、大変なんだ・・・・・」
天安門事件以後、人権問題を指摘したアメリカ大統領に鄧小平が呟いたとか。
その後皆さんのご承知のように、鄧小平の南方講話が開始されて、中国は凄い経済発展の時代に突入していきました。今の学生は天安門事件、文化大革命をどう考えているのか・・・。
私の見方は外国人の外から見た単純な見解でしょうね・・・・・。
中国の人にとっては、天安門事件はもっと身近で、切実で、ある種危険な話題なのでしょう・・・。
(その恩恵を享受出来る限られた人々を除いて)
国民が「良い国だ」と実感することは難しいでしょうね。
民族的にも歴史的にも、現在の人口・領土で国家を運営すること自体、
やはり無理があるのでは…。
経済発展をした中国を自慢したがるのですね・・・・。海外の人が声高に言うほど、政治の民主化を追及してる雰囲気はないみたい。
しかし、本音の聞けない国ですからね・・・・。