翌日ですが・・・「さ~て、どういう道を走ろうかな・・・・」
高野山への道も覗きたいし、田辺の方へ行ってもいいし、瀞八丁(どろはっちょう)も・・・。
高野山への小辺路とおぼしき道へ行ったのですが・・・。
「転落事故多し?」 とにかく道が狭くて、車がすれ違えません。
「山の道はよく判らないで走るのはダメだな~。 メイン道路の168号で行こう!」
熊野川沿いにトンネルを越えて下っていくと、山の中でも少し開けた感じになってきました。
「やっと着いたのかな 熊野本宮大社」
この熊野本宮大社の売り物?は2つ。
一つは、初代天皇の神武天皇が東征の際に、この八咫烏が熊野国から大和国への道案内をしたとされる神話。
二つ目は 平安時代に歴代の上皇などが、 熊野もうで として、幾度も訪れたこと。
まずは八咫烏の話ですが、由来文がありました。
神話の世界は、実際にそんなことがあったかどうかは別にして、結構歴史上の事実を形を変えて伝えているケースも多々ありますね。
「大和政権成立時に、天孫族は熊野から大和に入ったのかも? ホンマカイナ?」
この八咫烏の話は、邪馬台国が九州にあって、東に向かって攻めて(東征) この熊野から山を越えて大和の国へ。 その時熊野の豪族たちが協力したことを示している?
荒唐無稽の話のようですが、意外と伊勢神宮や熱田神宮、鹿島神宮など、全国の大きな神宮は、大和政権と地元の豪族の接触の産物かもしれませんね。 私の珍説でしょうが・・・・。
とにかく社の方へ上がって行きましょう。
「泊まりがけで熊野古道を歩いて来たのよ。今日は八木までバスで帰るのよ」
結構人気があるんですね、熊野古道。
「昔、天皇も熊野もうでをしたらしいけど、大変だったろうね」
「天皇はきっと輿に乗っていたんじゃない? 輿を担ぐ人は大変だったろうね」
「輿を担いだ人達に、ちゃんとお金を払ったのかしらね、天皇は」
「ご飯ぐらいは食べさせたでしょうけど、お金なんて払ったのかしら?」
平安時代、どうも浄土宗が流行って、この熊野の地は、浄土 とされたようです。
「えー? 天皇は神話の世界を想って熊野もうでをしたんじゃないのか。 仏教行事か・・・」
平安時代は神仏混合(本地垂迹説)が盛んで、日本の神様は仏の仮の姿(権現さま)ということだったらしいんですね。 ですから、熊野権現 ということになっていたのかもしれません。
「もうこうなってくると、なにが何だか判らないわ・・・・」
社の門に変なものが垂れ下がっていました。
本殿は現在修復中でしたね。
熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)は、どうも成立時期もバラバラですし、創建者もバラバラ。 一応相互の神様を共通させたそうですが、判らないことが多いんですね。 各地の豪族の権威づけ的意味合いがあったのかな・・・・。
この社の脇に、昔の古道の跡の雰囲気が残っていました。
十津川村にも温泉があるのですね。
サッカーの日本代表のマークに使用されているので八咫烏は
知っていましたが何故カラスがと思っていたので分かったような気がします。
全然しりませんでした。 今度は注意してサッカーの試合を見ます。