東南アジアの文化・人種の流れを俯瞰すると、東西にはインドからのヒンドー教の流れが脈々とあって、現在に残っている代表的な遺跡は カンボジアのアンコールワット。
上の写真は知人が最近撮ったもの。15年ぐらい前に私が行った時より、随分補修が進んだようだ。 確かアンコールワットは11世紀頃にクメール人によって建てられたものだが、このアンコールワットの北100キロぐらいの、タイのピマイによく似た、まことにそっくりな遺跡が残っている。
このピマイの建物はアンコールワットの100年ほど前に、同じくクメール人の手によって作られたとされている。
現代に生きる我々は、現在の国境に惑わされてしまって、国境などがなかった昔の姿を見失っているのかも知れない。 実は今回訪れたベトナムミーソン遺跡は、アンコールワットやタイのピマイとは、メコン川を挟んで僅か3~4百キロの距離しかない。ハノイやサイゴンより、はるかに近いのである。
ピマイがあるタイ東北部には度々訪れたことがある。なだらかな高原が広がり、国境さえなければカンボジアやラオス、ベトナムへは簡単に行ける感じの地形である。
熱帯林といってもジャングルが広がっているわけではなく、むしろ乾燥した地域である。恐らくゾウにでも乗れば一か月で往来できるのではなかろうか。
今回訪れたベトナムのミーソン遺跡は、ベトナム戦争でアメリカ軍にかなり破壊され、昔の姿を相当損ねているらしい。それに殆ど補修の手が加えられていないので、一見アンコールの遺跡と外観が異なるように見える。
しかし、塔の構成が、天界、神の世界、地界 の3つで構成されている点は同じである。
たとえば、タイの国内に散見される遺跡をみると、驚くほどにミーソン遺跡と雰囲気が似ている。
上の写真はタイ東北部へ行った時のもので、どの時代のものか忘れたが、塔の姿はミーソンと良く似ているが、風化が進んでいる。
本来この種の建物は、水郷によって俗界と仕切られるスタイルがスタンダードらしく、恐らくミーソンでも丁寧に遺跡を探検すれば、水の関係がもっと明らになるはずである。
次はマレー半島の付け根のペップリーの遺跡。
時代はむしろ新しいのだが、どう見ても同じヒンドーの系統の流れにある。
こうした例を挙げればきりがないほど、沢山の遺跡に出くわしている。
ヒンドーの流れは東西であるが、現代の東南アジアを構成しているのは南北の流れである。
ご承知のように、タイ族もラオス族も10~11世紀頃、中国南部の雲南からやって来た種族であるし、ベトナム族もハノイ近辺から南下してきた種族である。
これらの種族が、従来からいた、ヒンドーを信仰するクメール族やチャンパ王国のチャム族を追っ払って現在の国を作って来た。近世に至っても、カンボジアは度々タイに占領され、ポルポト内戦の時は、ベトナムに頼った経緯もあるくらいだ。
現在カンボジアのアンコール遺跡が脚光を浴びて、補修が集中的に行われている。これはカンボジア人自身の先祖の遺跡だからである。
ベトナムにあるチャンパ王国のミーソン遺跡は、ベトナム人が滅ぼしたチャム族の遺跡であるから、現政権のベトナム人が一生懸命やるとは思えないな~・・。
ましてや、古代の東南アジアを横断的に支配していた、ヒンドーの世界の遺跡を、系統的、時代別に、総合的な発掘と補修活動をするなんて、夢のまた夢。
浅学で学問的裏付けもない、単なる個人的意見なのですが、遺跡というのは見た瞬間に感じるものが大事で、それがその遺跡の本性をつかみ取ることになるのでは・・・・。
なぜ私がミーソン遺跡にこだわるのか、少し理解していただけましたでしょうか。
多分、東南アジア史で何処かにいい本でも出てるかも・・・。探してみます・・・。