このまほろば紀行は、どうしても歴史の旅のようになってしまいますが、私は古代史はよく知りませんので、現地で感じたまま勝手に想像するばかりですが・・・。
前回のブログで紹介した古市古墳群で一番大きな「誉田御廟山古墳(伝応神陵)」
確かに応神天皇稜と石碑が立っているのですが・・・・
度々指摘しているところですが、4世紀の三輪の天皇陵も5世紀の河内の天皇陵も7世紀の飛鳥の天皇稜もすべて同じスタイルです。明らかに宮内庁が作った後世の修正後の姿です。
変な話と思われるかも知れませんが、そもそも日本とか天皇という名称が決まったのは、なんと7世紀の天武天皇の頃で、それまでは天皇という名称は存在しない。(一応天皇という名を使いますが)
昔、私の祖母などは歴代の天皇の名前をすべて暗唱させられたらしい。
「ジンム、スイゼイ、アンネイ・・・・」
祖母がせっかく暗唱した歴代の天皇名も、どうやら後世の脚色だったようです。
しからば、本当のところはどうなの?
邪馬台国は何処にあったかの議論を始め、古代史の論争(一種ロマン?)が続くのですが、どうも26代の継体天皇(6世紀初め)以降は実存がはっきりしているらしい。
ところが、この継体天皇はどうも北陸からやってきて、すぐには飛鳥に入らず、河内に入ったという。この天皇は応神天皇の5代後孫だと言うのですが・・・。
「おかしいじゃん! なんで北陸から? なんで応神天皇系? なんで河内?」
少々頭が混乱してきますよね・・・・
少し調べました。
どの天皇が実存の初代の天皇か・・・・・
3説あるそうです。
10代の宗神天皇(三輪王朝) 3世紀~4世紀頃
15代の応神天皇(河内王朝) 4世紀~5世紀頃
26代の継体天皇 6世紀以降
これらの王朝が何らかの関係が連続しているのか、それとも王朝が交代したのか・・。
河内の古市古墳群の大きな前方後円墳を見ていると、明らかに三輪山の山辺の道のとは雰囲気は違うし、飛鳥の小さな丘が散在する穏やかな環境とも違いますね。
やっぱり「河内王朝」は存在したような気がしますね・・・。
今回のまほろば紀行は、あまり知られていない(教科書で習わなかった)場所ばかりを探訪しました。次回以降は、少し奈良らしい場所へ移動しましょう。